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「山田」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

山田


県中央部,滑【なめ】川左岸の開析谷の低地と丘陵部に位置する...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7290823]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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山田郡

当郡は天正13年仙石秀久,同15年尾藤知宣,ついで同年生駒親正(讃岐国15万石)が支配した

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

山田郷(中世)
 平安末期~戦国期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

山田郡
中世末期の伊賀は,国人・地侍衆が惣国一揆を結び,一国衆議による「自治」支配を行っていた...

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山田郷(中世)
 南北朝期~織豊期に見える郷名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

山田荘(中世)
 南北朝期~戦国期に見える荘園名...

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山田荘【やまだのしょう】
(古代~中世)平安期~室町期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

山田荘(古代~中世)
平安期~室町期に見える荘園名伊賀国山田郡のうちか11世紀末,「山田村」に平正盛の私領の田地3町8反(9条5里・7里・8里,10条7里に散在)が存在永長2年,正盛はこの私領を鞆田村の家地・畠地とともに六条院(白河法皇が皇女媞子内親王の死後,その御所を仏堂に改めたもの)に寄進し,六条院領として立券された(東大寺文書/平遺1382・1998)この山田村(山田荘)の所在地については山田郡内とする説が通説の感があるが,鞆田村に近接し鞆田荘の立券の際包摂されたとみる説,また玉滝杣内の「山田村」と関連づけ,阿拝【あえ】郡内とみなす説も出されているしかし,これらの異説のうち,前者はこの山田村の田地をもとに立券されたとみられる山田荘が鞆田荘とは別に存在した点(万寿禅寺記/群書24),また後者は現在試案として出されている阿拝郡条里の復原図(複数ある)によるかぎり,当該地に関連する地名や平氏に関する事跡が見出せない点がそれぞれ難点となるさらに鞆田荘の近辺に比定地を求めた場合,12世紀に鞆田村の領有をめぐって東大寺と平氏が争った相論のなかで,山田村が係争地となっていないことも疑問として残る(東大寺文書/平遺1998)したがって,通説のとおり山田郡内とするのが妥当であろうただし,この場合にも永長2年の田畠坪付に「小靹田」という地名が見えること,さらには作人の行照と久吉が寛治3年11月2日の湯船村田地坪付注文案にも見えることをどう解釈するかという問題が依然として残る(村井敬義本東大寺古文書/平遺1284)山田郡内の比定地に関しては定説はないが,以下の諸点から現在の大山田村平田近辺が最も可能性が高いとみられる第1にこの地が平氏家人平田家継(平家貞男)の本拠であり,平氏ゆかりの地であること(源平盛衰記),第2にこの付近では条里の9条5・7・8里,10条7里にわたる村落を求めることが可能であること(ただし山田郡条里の復原は未だなされていない),第3に現在の大山田村広瀬より上流の服部川流域は鎌倉期,東大寺領広瀬荘・阿波荘・富永荘の荘域となるが,この地域にこれらの荘園以外の荘域を設定するのは困難であること,この3点であるさて,康和4年にいたり,伊勢神宮より正盛の領有する荘園(正盛荘)が神領を取り込んでいるとの訴えが出されるが,「六条院庄」とも記されるこの荘園は当荘であった可能性もあるこの相論はまもなく神宮側がその主張を撤回したため,正盛の勝訴に終わる(中右記康和4年10月15日・11月7日・8日条)「保元物語」(古活字本)に「堀河院の御宇,嘉承三年正月廿六日,対馬守義親追討の時,故備前守殿(正盛)の真前懸て,公家にもしられ奉たりし山田の庄司行末」とある行末は当荘の荘官であろう同じく「保元物語」はその孫の山田小三郎伊行が清盛の郎党として白河殿の夜討ちに参加し,源為朝に射殺されたと伝える平家滅亡後は没官領になったと考えられるが,本所である六条院はその権限を保持し,その後も六条院領として推移する(万寿禅寺記)下って,元徳3年7月12日の金沢称名寺用途注文案には「一,伊賀山田用途事」とあり,鎌倉期には称名寺が何らかの権限を持っていたことを推測させるまた元亨元年7月12日の某書状には「いかのくに山田のしやうのうち,かハらのかうのへいふくし(平福寺)⊏⊐事」と見える(金沢文庫古文書7・4)南北朝期に入り,建武2年12月,田中兵衛なるものを語らい,伊賀七里峠(桜峠)で仏光寺空性(了源)を殺害した「伊賀国山田ノ荘」の「山田八郎ト云盗賊」は当荘の住人であろう(仏光寺記録/大日料6‐2)このころより北伊賀悪党の活動も活発になり,やがて室町期には万寿禅寺(六条院)も「山田庄院田」に対する支配権を完全に失うことになる(万寿禅寺記)なお,「源平盛衰記」(巻15)に「伊賀国山田郷」とあり,源頼朝が,治承4年以仁王とともに光明山の鳥居の辺で討死した律浄坊日印の供養のために,三井寺へ寄進したと伝えられるこの山田郷については平家没官領と考えられるが,六条院領山田荘との関係も含めて詳細は不明である...

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山田村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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山田町【ようだまち】
(近世~近代)江戸期~昭和39年の町名...

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山田(中世)
 鎌倉期から見える地名...

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山田町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう新城下町造営により成立町人地はじめは伊勢町と称したが,宝永2年,甲府藩主柳沢吉保の子吉里の官名伊勢守を避けて改称した伊勢町の地名の由来は大神宮の御旅所に立地したことにちなみ(国志),山田町は伊勢の山田を受けてつけられたと伝える城の東南に位置し,三ノ濠で囲まれた郭内にある西は柳町,東は工町に接する東西の町並みで,魚町・穴山町通りが交差し,1~3丁目からなる町の広さは,北側180間半・南側204間半(国志)柳町宿へ伝馬役を勤める定助9町の1町で,年間の出役基準は38人・19疋戸口は,寛文10年724人,うち男317・女407(甲府御用留/甲府略志),貞享4年62戸,うち1丁目23・2丁目23・3丁目16(上下府中間別/甲府略志),享保5年469人,うち男236・女233(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),文化初年59戸・306人,うち男172・女134(国志),天保7年59戸・395人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)「甲府中聞書」によると城下草分けの町人として当町には河内喜右衛門・森長兵衛・神保佐右衛門・坂田与市左衛門らの名が見える寛延3年町内の主な商人は2名の両替屋をはじめ魚問屋・造酒屋・油屋・糀屋・湯屋・質屋・材木屋・穀仲買などがあったが,当町を特色づけたのは古来「綿屋町」または「綿町」と称されるほど綿商売にかかわる商人が多かったことである「山田町三丁之儀ハ実綿・繰綿ハ勿論,打綿・篠巻都而綿類ニ拘リ候品ハ綿種迄古来より売買致来候」といわれ,江戸後期には町内に35人の綿屋仲間が見える(嘉永5年綿屋仲間出入一件願書并済口取替議定書/甲州文庫史料3)豪商としては宝暦年間以降新規に両替商を許された和泉屋(名取家)が知られるまた幕末横浜開港以後台頭した商人に若尾逸平がおり,文久年間若尾が市中の婦女子を集めて営んだ製糸場は甲州における製糸マニュファクチュアの嚆矢とされた当時町内に生糸商人が輩出したことから,「綿屋町」の名のあった当町はしだいに「絹の町」とよばれるようになった享和3年4月柳町より発した城下の大火で62戸を類焼(町年寄御用日記),嘉永7年11月の大地震では32戸の潰家を生じている(甲州文庫史料1)文政10年坂本登が私塾萋学舎を開設,明治4年には教師1,生徒は男98・女85であったが同7年琢美学校に転じた(甲斐志料集成6)幕末以来製糸技術の改良に専念した商人名取雅樹は明治6年新案の製糸機械を発明し,本県における機械製糸業の草分けとして著名であった明治3年の戸数131,うち家持63・借家68(甲府町方家数人数取調書)同17年甲府総町戸長役場,同20年から甲府錦町外三十六ケ町戸長役場の管轄区域に入る同22年甲府市に所属同年の戸数63・人口215,大正9年の世帯数108・人口609明治15年に市中で最も多い8か所を数えた製糸工場は,昭和前期においても6工場があり,また糸繭商も多く製糸業の町として特徴づけられた明治19年の雨宮製糸ストライキはわが国労働運動史上初めての女子労働者のストライキとして注目されている当時県下屈指の富豪・大地主となっていた若尾逸平は明治20年代に中央証券市場に進出,甲州財閥の総帥としてその名がひろく知られたが,同26年同町の同一店舗内に若尾銀行と山梨貯金銀行(同35年若尾貯蓄銀行と改称)を開業,両銀行は同38年に八日町へ新築移転するまで所在した大正7年8月米騒動の余波で若尾家焼打事件が起こっている戸口は昭和初年にかけて増加がみられたが,市の中心部にあたる住宅街としてまもなく停滞を示している同20年の空襲では全世帯数105のうち全焼40・半焼7で(甲府空襲の記録),市の中心部にあっては最も被害の少なかった町の1つである同26年の世帯数94・人口483同39年中央1~5丁目の一部となる...

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