吉田村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。高麗【こま】郡の村名。古くは三芳野郷に属したという。はじめ川越【かわごえ】藩領,慶応3年からは上野【こうずけ】前橋藩領。検地は慶安元年。村の西北の持添新田は幕府領で,延享元年に検地。村高は「田園簿」では228石余,うち田168石余・畑59石余,「元禄郷帳」209石余,「天保郷帳」235石余。村の規模は東西13町・南北8町余。化政期の家数52軒。用水は小畦川より引いて利用。鎮守は諏訪社。神社はほかに神明社・稲荷社など。寺院は天台宗吉田山西光寺,曹洞宗無量山万久院。高札場は村の東部。小名は坂下・背戸・前。明治初年,公立小学校を開校。明治9年埼玉県に所属。同年の戸数48・人口241,牛7・馬17,荷車1。物産は米・大麦・小麦など。飛地が天沼新田にある。同12年高麗郡に所属。同22年名細【なぐわし】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7290908
最終更新日:2009-03-01