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- 吉原とは
「吉原」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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吉原荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原村(近世) 江戸期~明治23年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原村(近代) 明治23年~昭和29年の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原郷(古代) 平安期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原郷(中世) 鎌倉期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原【よしわら】 (近世~近代)江戸期~昭和33年の公許遊廓地... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
吉原【よしわら】 (近世~近代)江戸期~昭和33年の公許遊廓地... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
吉原宿(近世) 江戸期~明治22年の宿名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
吉原(近世~近代) 江戸期~昭和33年の公許遊廓地江戸幕府は元和3年に,それまで市中数か所に散在していた遊女屋を集めて,葺屋【ふきや】町の東隣り2町四方の地(現在の中央区日本橋人形町付近)に遊廓をつくることを許可したヨシの生い繁る湿地を埋めたてて遊廓を建設したので,はじめ葭原【よしわら】と称したが,のち縁起のよい吉原に改めたという翌4年11月の開業当時は,江戸町【えどちよう】(のち江戸町1丁目),けんぞうす町(のち江戸町2丁目),京町【きようまち】(のち京町1丁目)の3町のみであったが,数年後に京町2丁目(新町ともいう)と角町【すみちよう】ができ,廓内にいわゆる五丁町が形成された(寛永江戸図)周囲に堀がめぐらされ,北隣りの長谷川【はせがわ】町・富沢【とみざわ】町側に入口があり,そこに大門【おおもん】があった現在でも浪花【なにわ】町と人形町3丁目の間の通りを,俗に大門通りと称しているので,この付近に大門があったと思われる大門をくぐってすぐ右手に,吉原町名主の庄司甚右衛門の屋敷があり,仲之町と呼ばれた廓内の中央通りをさらに進めば右側に江戸町1丁目と京町1丁目,左側には江戸町2丁目・角町・京町2丁目が並んでいた「あづま物語」(寛永19年刊)によれば,当時吉原には太夫75・格子3・端女郎881,計987人の遊女がいたというやがて江戸の町の発展に伴い,吉原が市街地の中心部になったため,明暦2年幕府は業者に対し,1万両余の移転料の支給,5割増の敷地の下付,寛永17年以来禁じていた夜業の許可などを条件に,郊外地への移転を命じた翌3年の明暦大火による類焼が移転に拍車をかけ,同年8月,浅草千束【せんぞく】村(現在の台東区千束)への移転を完了した以後,この地を「新吉原」と呼び,移転前の地を「元吉原」と称するようになったなお元吉原の跡地には新しい町屋が形成され,高砂【たかさご】町,住吉【すみよし】町,難波【なにわ】町,和泉【いずみ】町などが成立した |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」