ケータイ辞書JLogosロゴ 与野郷(中世)


埼玉県>さいたま市

 鎌倉期から見える郷名。足立【あだち】郡のうち。近世の与野町より南,さいたま市旧土合・大久保地区にかけて広がっていたものと推定され,近世の与野領(23か町村)を中心とする地域と思われる。京都禅林寺蔵正和3年作の融通念仏縁起絵詞に,鎌倉期の正嘉年間に足立郡与野郷の名主が念仏を信仰し,道場で別事念仏を修したため同家,家内の者がはやり病をのがれたとの伝承がある。与野の円乗院は現在のさいたま市道場(与野郷内)に鎌倉初期畠山重忠が道場を開いたところから始まり,江戸初期与野に移転したと伝えられるが,この「道場」は念仏を唱えた道場からくるとの説もある(新編武蔵・田代尚光:融通念仏縁起の研究)。この伝承から同郷は鎌倉期より存在したものと考えられるが,正安2年「足立郡大窪郷地頭方三分一方田畠注文」(正木文書)の平三次郎入道分に「よのさかい」と注記され,南北朝期は大窪郷に隣接する郷村だった。この頃より室町期にかけて定期市も立てられ,室町期成立という市場之祭文の応永22年7月20日の追記に与野の市が見られる(武文)。延徳4年死去した太田資清(道真)は,生前将軍足利義教より与野郷を賜り,以後岩付太田氏の子孫が相伝したという(太田家譜/潮田文書)。戦国末期,天正15年5月24日の,岩付城主太田氏房印判状によれば,与野郷の給衆と百姓に命じて与野郷内の周防堤と野相・小透堤を築造させ,100人の人足を徴発し6月5日までに完成させるよう命じている(与野市史編纂室所蔵文書/浦和市史)。これらの堤は与野周辺の旧入間【いるま】川にあったものと考えられ,岩付城主の支配やその在郷被官の存在が確認される。大戸の地蔵堂の本尊延命地蔵の台座墨書銘に「天正願主宮城美作守朝臣平正重敬白」と見える。また大戸には中世地名「亀在家」(現さいたま市大字大戸)も残されている。天正19年6月22日付「与野郷道場村検地帳」があり,この頃より近世村落に分村した(島崎文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7290942
最終更新日:2009-03-01




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