ケータイ辞書JLogosロゴ 与野町(近世)


埼玉県>さいたま市

 江戸期〜明治22年の町名。足立郡与野領のうち。古くは与野郷貴頭荘に属したという。天正19年中世の与野郷から分村。はじめ与野村と称したが,寛永21年〜慶安元年頃町立てされた。与野領23か町村の本村。はじめ幕府領と旗本牧氏の知行,正保年間頃は旗本牧・保々・宮崎氏の相給,宮崎氏の知行はのち幕府領となる。村高は「田園簿」で671石余,「元禄郷帳」で691石余,「天保郷帳」で803石余。持添新田があり,検地は平野原新田が享保16年,荒川通流作場新田が延享7年(井原もと文書)。他に高沼新田,平野原の与野領17か村入会秣場がある。これらの新田は幕府領。当村からは特に大豆・荏【え】を上納した。町の規模は東西2町余・南北30町。用水ははじめ鴻沼溜井,のち享保16年開削された高沼用水を利用。家数・人口は貞享3年128軒,宝暦5年184軒・699人,化政期には304軒(蓮見三郎家文書)。地内を通る中世鎌倉街道といわれた中山道脇往還に伝馬継立場があり,交通上の重要な地点であった。甲州街道より岩槻【いわつき】(岩槻市)を経て奥州街道に連絡するもので,引又(志木市)と原市(上尾【あげお】市)との間に設置されていた。その伝馬役を負担するため元禄8年以降,中山道大宮宿(さいたま市)の助郷役を免除される。しかし大宮宿が助郷村に指定しようとしたため,寛保2年頃から同宿との間にしばしば訴訟が繰り返された。この他,日光街道大門【だいもん】宿(浦和市)との間に助郷相論があり,また日光御成街道岩淵町(東京都北区)・川口宿(川口市)の助郷役を負担する。この脇往還の両側に人家が集中し,町の形体も南北に細長い。ここに4・9の六斎市が開かれ,周辺村々の米穀集散地として発展,化政期には中山道浦和宿,大宮宿より家数も多くなっていた(新編武蔵)。町内は上町・中町(本宿)・下町に分かれ,各町は独立性が強かった。町内には造り酒屋・鍛冶屋・鋳物師などが散見され,町の中ほどに3か所郷蔵があった。江戸近郊の町場であったため文化人も輩出。中でも儒者,徳行家で「与野聖人」と呼ばれた西沢曠野と,松尾芭蕉の流れをひく化政期の俳人鈴木荘丹は良く知られる。荘丹は大島蓼太の門弟で江戸から与野に移住し,「与野八景句集」等多くの著作を残した。世襲名主は井原家(幕府領・牧氏知行)・丸家(保々氏知行)。特産品は清酒や紅花を出荷。また伊奈氏の陣屋のある現在の川口市赤山から与野付近をつなぐ赤山街道が脇往還と交差する。鎮守は小村田村との境にある氷川神社。神社はほかに天神社・稲荷社など11社。寺院は新義真言宗円乗院・浄土宗長伝寺・本山派修験三光寺ほか3寺。円乗院の中興開山は賢明で,慶長19年与野郷道場村に朱印15石を拝領。同寺は寛延2年檀林格になり,当地方の新義真言宗寺院の重鎮となった。長伝寺の中興開山は徳川家康に仕えた浄土宗の高僧普光観智国師。同寺ははじめ小村田村内に朱印5石を有したが,のちに収公されたという。境内の観音堂は享保8年秩父【ちちぶ】三十四番札所の24番となる。木曽御嶽信仰は化政期に井原平八が先達をつとめ,幕末に活動した一山行者は井原家の世話になっており,与野付近で多くの信者を集め町内の一山神社の祭神となる。高札場は町の南部に1か所。明治4年埼玉県に所属。同5年長伝寺を仮用し,公立小学校(現本町小学校)を開校,生徒数は男94・女61。同9年の戸数275・人口1,487,荷車48・人力車2。物産は米・大麦・小麦・アワ・ソバ・大豆・清酒,余剰を他町村へ出荷。田島村・道場村・元宿村・中島村・千駄村・山久保村・町谷村・鈴谷村,山久保・上峰両村入会の地,鈴谷・山久保両村入会の地,上峰村入会の地,小村田村入会の地などに飛地がある。同12年北足立郡に所属。同22年与野町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7290943
最終更新日:2009-03-01




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