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埼玉県>さいたま市

 明治22年〜昭和62年の大字名。はじめ与野町,昭和33年からは与野市の大字。明治22年の人口1,614,世帯・人口は昭和5年427・2,343,同30年1,485・7,086,同45年の人口は1万2,506。明治20年代以降機業が発展し30年代には機織業者は22名となる。第2次大戦前まで盛んで明治35年結成の埼玉織物同業組合等の団体には多くの役員がでている。また,近世以来4・9の六斎市として知られる定期市も明治から大正期まで盛んで多くの米穀商が活動する。明治16年,高崎線の開業にあたり町では地域内通過に反対したため,商業面では駅の開設された浦和・大宮におされて衰退した。そのため町では東北線与野駅開設に尽力,大正元年,上木崎(現さいたま市)に開設を見るが,大字下落合に近く,当地の町内中心街としての性格は薄れた。明治34年与野町郵便受取所(現与野本町郵便局)が開局,昭和15年耕地整理が完成し与野公園内に記念碑が建てられる。同44年与野毛呂公営住宅が,同45年には市営の小村田団地・上町団地が建設された。同48年全国でも珍しい葬祭・法要を行うための市立ひかり会館,同52年診療所を加味した市立保健センターが設立された。昭和15年一部を三橋村に編入。同22年大字小村田を編入。同37年・38年一部を大字鈴谷に編入。同46年一部を浦和市に編入。昭和62年下落合2〜7丁目となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7290946
最終更新日:2009-03-01




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