ケータイ辞書JLogosロゴ 蕨(中世)


埼玉県>蕨市

 室町期から見える地名。足立【あだち】郡のうち。室町期の成立と思われる市場之祭文に「武州足立郡蕨市祭成之」(武文)とあるのが初見。市日は1・6の日か。この頃足利氏の一族渋川義行が蕨に城を築き居城としたという。長禄元年6月,将軍足利義政は古河公方足利成氏を討つため義行の孫義鏡【よしかね】を関東探題に任じ武蔵国へ下向させ蕨城に拠らせた(鎌倉大草紙)。義鏡とその子義堯【よしあき】は堀越公方を迎えたり,各地に奮戦したが(板倉頼次書状・太田道灌書状/正木文書)見るべき成果はなく,時代は有為転変していった。これより先,文明9年閏正月6日の鑁阿【ばんな】寺巡礼納札(現栃木県足利市,本堂柱下より出土)には「坂東州三所巡礼仙 武州足立郡芝丘郷蕨村助三郎・助二郎・彦二郎」とあり,蕨村の助三郎らが鑁阿寺に坂東巡礼の札を納めている。戦国期にはいると蕨城主渋川氏は小田原北条氏の支配下にあったが,本土寺過去帳(千葉県松戸市)によれば「七日,武蔵蕨 自落城(皆伊勢守氏縄家風也,大永第六年六日)」とある(続群書類従)。大永6年の5月から6月にかけて河越城主扇谷上杉朝興の猛攻を受け(古河公方高基書状・朝興書状),6月7日に落城している。北条氏綱は蕨城を救おうとして高倉まで駈けつけたがやむなく引き返したという(続本朝通鑑)。さいたま市宮本の氷川女体神社蔵の「大般若波羅蜜多経」の識語には「巻第四百九十二,蕨,篠目二月朔日二日ニ焼失,永禄五年壬戌正月,氏康足立動,為天下豊饒真読」とあり,永禄5年2月蕨,篠目(佐々目)は北条氏康軍のため焼失している。永禄10年の下総【しもうさ】国府台【こうのだい】の戦いで「蕨の御所」渋川公は戦死した(里見系図)。戦死年月日は9種の史料に異同があるが,渋川氏の菩提寺臨済宗金峯山宝樹院にある位牌・墓碑は永禄10年8月23日とする。子孫断絶は小田原北条氏滅亡の翌年天正19年である(同院墓碑)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7291024
最終更新日:2009-03-01




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