ケータイ辞書JLogosロゴ 泉村(中世)


千葉県>沼南町

 鎌倉期から見える村名。下総国相馬郡相馬御厨南相馬のうち。泉郷とも見える。正和4年8月7日の妙悟譲状(相馬岡田文書/県史料県外)に「みなみさうまのうち,いつみのむら」と見え,相馬岡田胤顕の後家尼妙悟が当村を惣領胤盛に譲与している。胤盛の子胤康は建武4年の史料に「相馬泉五郎胤康」と記されており,当村は相馬岡田氏の苗字の地でもあった。胤盛の死後元応2年6月8日後家尼専照は当村を嫡子胤康に譲与,元徳3年9月26日には,胤康が「いつみの村」を胤家に譲与している(同前)。同時に胤康は次男「まこつる」に村内「六郎入道か田八反小」,女子に「つしうち田四反半」,女房に「むしなううち田五反小」をそれぞれ譲与した。また,胤康の弟長胤が「下総国相馬御厨内泉村」の安堵を申請していることが元弘3年12月日の相馬長胤申状案に見え(同前),当村の一部は専照から長胤に譲られていた。建武の新政権に加わった胤康は建武2年12月20日付で譲状(同前)を作成した。おそらく,建武の新政権に所領支配を安堵された上で譲与することが必要と考えたためであろう。建武3年4月,鎌倉片瀬において胤康が討死すると,嫡子胤家は内乱に乗じて所領の確保・拡大につとめた。建武4年,胤家の代官祐賢は本領「相馬御厨内泉郷」の安堵を申請,斯波家長が高師直に披露したことが建武4年8月18日の斯波家長誓状から知られる(同前)。貞治2年8月18日の相馬胤家譲状(同前)には胤家が嫡子胤重に「みなみさうま いつみのむら」を譲与したことが見え,さらに胤重(胤繁)が嫡子胤久に「さむまのこほりの内,みなみさむま いつみのむら」を譲与したことは,康暦3年5月24日の相馬胤繁譲状(相馬岡田文書/県史料県外)に見える。その後,応永2年のものといわれる南相馬村田数注文(相馬文書/県史料県外)には「みなみさうまのふん」として「いつみのむら 二十二ちやう」が記されている。下って文正2年4月8日,平胤弘が「南相馬郡泉郷柳渡」の福満寺に梵鐘を寄進したことが同梵鐘銘(県史料金石2)に見える。また,延徳5年1月「相馬泉殿道樹」が没したことが「本土寺過去帳」の26日の項に見え,9日の項には明応3年5月,「相馬泉ノ竜泉院昇覚」が野手合戦において戦死したことも見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7291421
最終更新日:2009-03-01




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