ケータイ辞書JLogosロゴ 一宮荘(中世)


千葉県>一宮町

 鎌倉期から見える荘園名。上総国のうち。現在の一宮町・睦沢町・長生村・岬町にまたがる埴生郡のほぼ全域が荘園化したものと思われる。上総一宮玉前神社の神領を基盤に成立したもので,鎌倉期には玉前荘(玉崎荘)と称していたが,玉前神社が上総国一宮であったことから一宮荘の荘号が一般化したものと考えられる。永万元年6月の神祇官諸社年貢注文(永万文書/平遺3358)にすでに「玉綺社」と見える。神祇官を本所とする一方,鳥羽天皇皇女の上西門院領となり,貞応から元仁年間頃後白河天皇の皇女宣陽門院に伝領された(島田文書/鎌遺3274)。しかし承久年間と推定される年月日未詳上総国雑掌調成安申状(民経記裏文書/鎌遺2632)によると,この当時すでに当荘は地頭請所になっていた。ちなみに「本朝世紀」康治2年8月11日条に玉前社社務執行源為季頓死の記事が見える。12世紀末には両総平氏嫡流の上総氏が荘内大柳【おおやぎ】館を居館としていたらしく,当荘は上総氏が本領として在地支配にあたっていたとみられる。寿永元年7月,上総権介広常は3か年のうちに神田20町の寄進・社殿の造営・万度の流鏑馬を射ることを約して源頼朝の武運長久・東国泰平を祈願している(吾妻鏡)。上総氏滅亡後,当荘は千葉常胤の支配下に入り,常胤の孫常秀,その子秀胤と伝領され,秀胤は,寛元4年の宮騒動で上総に放逐され,ついで宝治元年三浦泰村の乱(宝治合戦)に連座して幕府軍の追討をうけ,大柳館に火を放って滅亡した(吾妻鏡)。観応3年6月8日,足利尊氏は一宮荘高根郷内の大曽禰大宰少弐入道跡を勲功の賞として安田修理亮氏義に与えているが(垣谷文書/日高町史),大曽禰氏は宝治合戦の火つけ役である安達氏の一族であり,しかも代々上総介に任じているので,千葉秀胤滅亡後,当荘の地頭職は安達氏―大曽氏の手に帰したものと考えられる。当荘は鎌倉末期から南北朝期には鎌倉の諸寺院との関係を深めていったらしく,一宮荘民の中には受戒の志をもって海を渡り,極楽寺に赴いた者もあったことが見える(金沢文庫文書/県史料県外)。一方,荘内南上郷は13世紀以来円覚寺領となっていたが,応永18年11月3日の上総国守護代藤原某遵行状(円覚寺文書/神奈川県史資料編3)によると,同郷半分の下地は同年10月15日をもって佐々木有秀に渡されている。しかし応永26年12月17日の鎌倉公方足利持氏御教書(同前)によって,同郷は円覚寺領として安堵された。その後,「一宮荘」の名は武蔵国久良岐郡の弘明寺鰐口(県史料金石2)や永正13年5月14日に記された「仏堂伽藍記」(藻原寺文書/県史料諸家)などに見え,下って現夷隅町荻原の行元寺所蔵胎灌頂私記や離作業私記の奥書(行元寺文書/県史料諸家)によると,これらは各々永禄8年4月および6月に「一宮荘椎木郷長坂」にあった般若寺で書写されたとあり,荘園名として戦国期まで残った。ところで戦国期,当荘の城郭として一宮城が見える。創築年代未詳であるが「総州久留里軍記」によると弘治元年北条氏が里見義堯を攻めた際,一宮城主須田将監は里見方として久留里城に籠城したが,北条側に内通したことが露見して一族もろとも義堯に討たれたという。永禄8年里見氏の重臣で勝浦城主の正木左近大夫時忠が謀反をおこして北条氏に通じ,東上総一帯を勢力下におさめた際,一宮城の城主は時忠の一族の正木大炊助であったが,時忠の子時通に攻められて追い出され,この時上総一宮玉前神社も兵火にかかり,社地の移動を余儀なくされている(房総里見氏の研究)。その後天正元年頃から,北条氏方の古河公方足利義氏に対し,簗田・里見・上杉らの諸氏は義氏の庶兄藤政を古河公方に立てたので,北条氏は下総・上総に侵入し,天正3年頃には土気・東金まで攻めている。天正3年8月23日の北条家朱印状や同28日の北条氏政書状写(相州文書・伊藤文書・清水文書/神奈川県史資料編3)によると,北条軍は土気・東金で兵粮米を刈取り,その米を一宮城を守る北条方正木藤太郎・松田某に送ったことがわかる。その後一宮城はまた里見氏の属城となり,天正18年と思われる関東八州諸城覚書(毛利家文書/大日古)に,里見義康配下の城として鶴見甲斐守が守っていた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7291492
最終更新日:2009-03-01




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