ケータイ辞書JLogosロゴ 伊北荘(中世)


千葉県>夷隅町

平安末期〜戦国期に見える荘園名上総国夷灊【いしみ】郡が平安末期に南北に解体して伊北郡が成立し,それが荘園化したもの「吾妻鏡」治承4年10月3日条に「伊北庄司常仲〈伊南新介常景男〉」とあるのが当荘の存在を示す初見である「吾妻鏡」文治4年6月4日条には「伊隅庄」とあり,伊南荘と一括して金剛心院領としている伊北荘司常仲は上総氏の一族で,治承4年10月,上総権介広常に属して源頼朝の陣に参向したが,平家方の安房国住人長狭六郎常伴の外甥であるという理由で,頼朝の命をうけた千葉太郎胤正の追討をうけた(吾妻鏡)寿永2年上総氏滅亡の後,当荘の地頭職は和田義盛に与えられ,義盛はここを本拠として承元3年5月源実朝に上総国司への推挙を希望している(同前)建保元年5月,和田の乱で義盛が滅亡すると当荘は三浦胤義に与えられた(民経記裏文書/鎌遺2676)なお,「吾妻鏡」建保元年5月7日条に「伊北郡」と見えるが同年3月7日条には「伊北庄」とあり,また上総介清国書状には「伊隅庄内伊北分」とある承久の乱で胤義が滅亡して以後の当荘の領有関係については明らかではないが,永仁6年9月21日関東下知状(覚園寺文書/神奈川県史資料編2)に「伊北庄司小太郎」なる者が見え,また承久の乱の勲功賞として伊北胤明が出雲国福田荘地頭職を得ている(賀茂別雷神社文書/鎌遺4362)ことから,上総氏系の伊北氏が再び在地領主権を回復したものらしい南北朝動乱期には佐々木道誉が当荘の地頭職を得たが,千葉介氏胤の押領をうけている(佐々木文書/神奈川県史資料編3)さらに明徳3年以後,伊北荘の3分の2は鎌倉府の直轄領となっていたことが知られ(府中市史上),当時,伊北・伊南荘に狩野氏が,伊北荘に二階堂氏が在地領主として発展をみせるのは,これを背景としたものと思われるなお,夢窓疎石臨川寺三会院遺誡写(黄梅院文書/神奈川県史資料編3)によると,14世紀の頃,荘内佐古田郷は臨川寺三会院の資縁の地となっていたが,永徳3年の頃は天竜寺雲居庵領となっている伊北荘の天正18年以前の最終所見は天正12年11月「以心灌頂私記」奥書(行元寺文書/県史料諸家)である
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7291591
最終更新日:2009-03-01




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