ケータイ辞書JLogosロゴ 印西(中世)


千葉県>印西市

 鎌倉期から見える地名。下総国のうち。建久8年と推定される香取社遷宮用途注進状に遷宮用途・覆勘禄料雑事を負担する郡郷の1つとして「印西条」が見え,当時国衙領であったことが知られる(旧大禰宜家文書/鎌遺610)。「和名抄」の印旛郡が平安後期に二分されて成立した,いわゆる中世的郡郷であり,時に印西郷(東洋文庫所蔵経光卿正元元年11・12月条裏文書・金沢文庫所蔵摩訶止観聞書弘安3年識語/県史料県外),印西荘(竜腹寺所蔵梵鐘銘/県史料金石2)ともいわれた。香取社宝治3年遷宮時の造宮所役注文に「一 外院中門一宇 印西所役 掃部助□(殿)」,文永8年遷宮時の造宮記録断簡には「外院門一宇 作料官米佰捌拾斛 印西条本役也,仍地頭等(ママ)越後□□□」と見え(香取神社文書/県史料香取),鎌倉中後期には北条実時およびその子孫たる金沢氏が当地の地頭職をもち,香取社遷宮では外院中門の負担を負ったことが知られる。嘉元3年4月28日付金沢瀬戸橋造営棟別銭注文でも金沢氏所領のうちに「拾貫七百六十八文 印西分」とある(金沢文庫文書/県史料県外)。北条氏滅亡後の支配関係は未詳だが,康永4年3月日付造宮所役注文には「一宇 外院中門 印西所役」のほか「一宇 脇門 印西庄所役」とある(香取神宮文書/県史料香取)。印西荘については,正平7年正月2日,足利尊氏が勲功の賞として老臣南宗継に充行った所領の中に「下総国印西庄」が見え(清源寺文書/栃木県史資料編中世1),その後同荘地頭職は一旦,尊氏から佐々木高氏(道誉)に与えられたが,千葉介氏胤らの押領にあっている(佐々木文書年未詳5月18日付足利尊氏書状案/神奈川県史資料編3)。東光院(白井町名打)所蔵地蔵菩薩立像の元亀2年8月朔日付胎内墨書銘に「下総国印西庄平塚郷名打村」と見え(県史料金石2),また南北朝期の香取遷宮において当荘の負担とされている脇門が鎌倉期では平塚郷の負担となっていることなどから印西荘が現在の白井町平塚付近を含むことが明らかである。印西荘は印西条と並立したとも考えられるが,あるいは,南北朝初期頃に平塚郷が印西条に併合せられ,両者を合わせて印西荘などと称したかとも考えられよう。室町期には,応永7年7月の円覚寺新文書目録に「壱通 印西条鎌倉殿安堵〈応永二 七廿八〉」とあり,おそくともこれ以前に鎌倉円覚寺領となっている(円覚寺文書/神奈川県史資料編3)。同文書目録によれば,同寺領印西条は内・外に分かれ,おのおの8か郷からなる。円覚寺領印西条は応永26年12月17日にも鎌倉公方足利持氏から安堵され,文安4年閏2月19日には,下総守護千葉胤将が「円覚寺々領下総国両郷」に対する違乱を禁ずる旨,上杉憲定に伝えており(円覚寺文書/県史料県外),少なくともこの頃までは円覚寺領であった。戦国期には千葉氏およびその家臣らの勢力下にあったとみられ,天正10年5月28日,千葉邦胤が印西外郷を守護不入の地とする判物を原胤長に発給している(根津文書/同前)。中世,当地に属した地名としては,笠上・竜腹寺(逢善寺所蔵檀那門跡相承資/同前),平賀(円覚寺文書,応永7年7月25日付新文書目録/神奈川県史資料編3)などがある。現在の印西市・印旛【いんば】村を中心に,白井町東部,本埜町西部を含む地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7291727
最終更新日:2009-03-01




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