ケータイ辞書JLogosロゴ 江戸町(近世〜近代)


千葉県>関宿町

江戸期〜現在の町名明治初年〜明治22年は関宿を冠称江戸期は関宿城下町の1つ明治22年からは関宿町の町名町高は,「元禄郷帳」261石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに338石余天保年間の貢租は米7石余,永51貫406文余関宿城下武家屋敷の南にかけて,日光東往還沿いに鉤手状に町屋が形成され,台町とともに町人町の中核をなし,地内に日光東往還関宿宿が置かれた当地は江戸川・逆川の合流点にあたり,江戸期から内河岸・行人河岸の2河岸があって,水運の要衝として栄えた幕末期には3軒の積荷問屋のほか船夫・船曳人足の家が軒を並べ,明治4年その戸数は58であった(関宿志)また,五霞村江川(現茨城県)との間の紺屋渡し,向河岸(現埼玉県)との間の関所渡しの渡船場があり,当地北端に江戸川への流水量調節の東棒出しがあった町人町であったが,17世紀中頃には藩校養正堂,幕末期には江戸から引き上げた藩士家族のための下屋敷が建設されている寺院には,慶安元年藩主牧野信成建立の浄土宗清信寺,関宿城大手門鎮護の真言宗福寿院がある神社は香取神社とその末社牛頭天王社香取神社の祇園祭は近在にまれなにぎわいを呈したという(世喜宿土産)明治7年江戸町郵便局開局同8年の戸数213・人数1,044(木間ケ瀬小沼家文書)同10年内国通運上川航路東関宿発着所設置(加藤船宿)同11年松戸警察署関宿分署設置明治24年の戸数158・人口1,100,船68同28年地内の江戸川以西を埼玉県豊岡村,権現堂川以北を茨城県五霞村に編入明治44年〜昭和4年の利根川・江戸川改修工事により,鎮守香取神社を含む家屋が,昭和24年からの改修工事では地内の半分以上が江戸川河川敷下となる昭和7年埼玉県西関宿との間に船橋が架けられた同39年関宿橋竣工大正12年の戸数118,うち農業76・商業20・工業9・その他13世帯数・人口は,昭和30年82・418,同40年58・290
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7291907
最終更新日:2009-03-01




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