ケータイ辞書JLogosロゴ 大崎村(中世)


千葉県>佐原市

 南北朝期に見える村名。下総国大戸荘のうち。応安4年10月9日,沙弥寿歓が祐忻禅尼の後生菩提のため,「下総国大戸荘大崎村内佃弐段」を大竜寺(現与倉)に寄進している(房総古文書雑纂所収大竜寺文書/房総叢書)。寿歓は千葉氏一族国分氏の国分三河守胤詮。大竜寺は寿歓の建立にかかる。国分氏は千葉常胤の第5子胤通を祖とし,胤通の子常義は「大戸矢作領主」といわれ,現在の佐原市本矢作付近を本拠としたが,その曽孫泰胤の代に当地大崎城に移居したと伝える(千葉大系図/房総叢書)。大崎城は一名矢作城といい,城址は現在佐原市大崎字城内にある。江戸末期の弘化3年に大崎村臼田七郎右衛門の記した「矢作古城跡之図」によれば,当城は北側に「城の内」があり,周囲に空濠を廻らし,北に千葉一族の守護神たる妙見社をる。南側は「外城」であり,城の大手はこの南側であったと考えられる。城の下を流れる香西川の水中には,幅3〜4mほどの敷石があり,城の北端から敷かれていて,間道などの目的に用いられたものかという。当城は安房里見氏の重臣正木氏の攻撃によって落城,その時期は,永禄8年とも天正14年ともいわれる。天正18年,鳥居彦右衛門元忠が4万石を与えられて入城,慶長7年,鳥居忠政が奥州磐城平に転封のため廃城となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7292034
最終更新日:2009-03-01




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