ケータイ辞書JLogosロゴ 大多喜城(近世)


千葉県>大多喜町

江戸期の城名天正18年の徳川家康の関東入国に伴い,小田喜に入封した本多忠勝が,中世小田喜城(小田喜根古屋城)の南西,現在の大多喜町大多喜地内に築いた平山城城の北西部では標高150mの房総丘陵が,南東部では夷隅川の流れが各々天然の要害の役割を果たしていた城の位置は標高73mで,外濠・内濠・空濠によって,本丸・二の丸・三の丸の敷地に区分されていた本丸には三層の天守,二の丸には城主の御殿,重臣の屋敷,三の丸には家臣の役宅,米倉・武器倉を備え,ことに二の丸・三の丸には籠城に備えて大小25もの井戸があった中でも二の丸の大井戸は本多忠勝が築城の時に掘ったもので,「底知らずの井戸」として知られる当城は当初安房の里見氏に対する防衛拠点として厳重な施設を備え,かつ桃山様式の壮麗な外観をもつ城であったしかし元禄12年,城主阿部正春の時,幕府の命令で城は改修・縮小され,さらに天保13年に炎上して天守等は焼失し,以後は基本的な殿舎の形式を備える程度のものとなった明治元年の鳥羽伏見の戦いでは,当城主松平正質は幕府軍の総指揮官となったため,同年4月12日,当城は官軍の柳原前光の攻撃をうけ,正質は降服その後赦されて,明治2年6月の版籍奉還後は大多喜藩知事となり,当城を藩庁とした明治4年の廃藩置県により廃城現在,二の丸の御殿の薬医門および大井戸が残り,本丸は昭和50年に再建された
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7292091
最終更新日:2009-03-01




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