笠神埜原新田(近世)
江戸期の村名下総国印旛【いんば】郡のうち野原新田・十四ケ新田・十四ケともいう印旛沼北部,利根川支流長門川左岸の低平地もと笠神村御立野原と呼ばれ,同村が貢米75俵ずつ上納する野原であったところに,寛文2年下利根川堀割工事の際,川筋の諸村の替地などとして14の新田が開発されたこの14新田の総称が笠神埜原新田で,寛文11年囲堤が完成,同13年には高入となっている(印旛郡誌)14新田は,持添新田としての中根新田・萩原新田・松虫新田,代替地新田としての押付新田・行徳新田・下井新田・下曽根新田・中田切新田・松木新田,町人請負の和泉屋新田・佐野屋新田・長門屋新田,個人請の将監新田・甚兵衛新田からなる「各村級分」では幕府領,元禄14年から佐倉藩領,享保8年から幕府領,天保10年から押付・行徳・下井・中田切・長門屋・萩原の各新田と将監新田の一部が浜松藩領となる村高は,「元禄郷帳」1,350石余,「天保郷帳」1,370石余享保2年年貢割付状は当新田1本となっており,反別田41町5反余・畑118町余・屋敷2町5反余・埜地86町1反余・新洲4反余・宝永6年改埜地4町3反余,年貢は永納で30貫375文,ほかに夫役永1貫938文4分しかし,のち当新田は4か村組(松木・中田切・下井・長門屋の各新田)と10か村組(将監・行徳・甚兵衛・和泉屋・下曽根・萩原・佐野屋・中根・松虫・押付の各新田)に大きく分けられたと思われ,享保15年四ケ村組年貢割付状,天保3年十ケ村請免状写などが残る(吉植家文書)江戸中期には14新田が独立して把握されるようになるが,江戸期を通じて笠神埜原新田としてのまとまりも強いまた,安食卜杭新田・小林新田・酒直卜杭新田を含めた地域は枝利根川(現将監川)と印旛沼に接しており,水害が多発したため早くから普請組合を結成している「旧高旧領」では14新田がそれぞれ1村として見える
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7292574
最終更新日:2009-03-01