ケータイ辞書JLogosロゴ 金田保(中世)


千葉県>木更津市

 南北朝期〜室町期に見える保名。上総国望東【もうとう】郡のうち。金田郷とも見える。鎌倉期以来の国衙領と考えられるが,南北朝期以降当保の国衙領得分は鎌倉明王院五大堂の鎮守春日社領となっている。明王院は鎌倉摂家将軍頼経の御願寺であったため,境内に総社として春日社が勧請されたものである。このため,おそらく南北朝期初頭頃に公家または将軍家が,同得分を春日社に寄進したものであろうか。年未詳11月18日付某書状(金沢文庫文書/県史料県外)によれば,当保のほか天羽(郡)・周西【すさい】(郡)・与宇呂(保)・武射【むさ】(郡)の上総国3郡2保の国衙領得分が春日社領となっている。保内に高柳・大崎・万石(国)などの村(郷)があった。高柳は刑部少輔(町野)長康の所領であったが,南北朝末期,相博により武蔵国金沢称名寺領となっている(金沢文庫文書/県史料県外)。大崎は室町幕府政所頭人伊勢貞信の所領であったが,室町初期に同じく相博により鎌倉円覚寺領となっている(円覚寺文書/神奈川県史資料編3)。同村を含む円覚寺領を一括して安堵した応永26年12月17日の鎌倉公方持氏御教書(円覚寺文書/県史料県外)には,「同(上総)国望東郡金田保内大崎村」と見え,当保が望東郡に属したことが確認される。ただし,望陀郡の西方に位置するこの地を「望東」と称する理由は明らかでない。万国については,室町中期のものと推定される年月日未詳の岩松氏所領注文(正木文書/同前)に,「上総国之内 一所 万国郷由緒地〈今度刻まで鹿倉知行〉」と見え,岩松氏の旧領であったが,当時は鹿倉氏が知行していたことが知られる。町野氏・伊勢氏・岩松氏などの武士がこれら3か所において有した権利は郷地頭職の系譜を引くものであろう。一方,春日社が当保に有した国衙領得分は,前掲年未詳11月18日付某書状では「上総国天羽・周西・与宇呂・金田・武射国分寺尼寺正税」とあり,文和3年11月24日付前安芸守某書では,「金田郷内万石・大崎村等正税」(明王院文書/同前),正長3年閏11月16日の沙弥道禅奉書案では,「金田保国衙職〈号別納〉并尼寺国分寺正税」(金沢文庫文書/同前)などと表現されている。この春日社得分は,保内の各郷を単位として収納された。高柳村(郷)から納められた公事銭の用途を詳細に記した康暦2年の上総国金田保内高柳村公事銭結解帳(金沢文庫文書/県史料県外)には,「合参拾弐貫百六十六文之内 十貫五百文 国衙方弁之」と見え,同村総得分のうち約3分の1が国衙方(春日社)の得分であったことがわかる。永享11年9月22日付称名寺領上総国金田保高柳村納帳(金沢文庫文書/神奈川県史資料編3)でも,「金田保内高柳村春日別納御⊏(年貢カ)」として10貫文が納められており,南北朝期・室町期を通じて高柳村における春日社得分は一定していたようである。各郷における国衙領得分はこのように高額であったため,各郷知行者が国衙方への弁済を怠ることも多く,春日社は得分確保のためしばしば訴訟を起こしている。なお応永4年4月9日の銘のある懸仏に,「上総国金田保之内牛袋住人大工貞吉」とあり,当保内の地名として牛袋が見える(東京都杉並区宇野信四郎氏所蔵懸仏銘/県史料金石2)。比定地は近代の旧金田村域のほか,万石・高柳・牛袋の大字名が残る小櫃川下流域,現在の木更津市北西端付近。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7292733
最終更新日:2009-03-01




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