ケータイ辞書JLogosロゴ 鏑木郷(中世)


千葉県>干潟町

 鎌倉期から見える郷名。下総国匝瑳北条荘のうち。建長4年3月28日,法橋長専が下総国守護千葉氏執事富木胤継(常忍)にあてた書状に「鏑木郷御公事用途銭壱貫陸伯文,且給候了」とある(下総中山法華経寺所蔵聖教裏文書/鎌遺7422)。当郷の在地領主は千葉氏庶流の鏑木氏で,初代胤定は浄土宗に帰依,「浄土宗三祖言行録」に「上人(良忠)或時鏑木入道在阿(胤定)のために選択集を講授し」とあるように,浄土宗鎮西派の記主禅師然阿良忠に師事して,鏑木山胤定院光明寺を建立した。鏑木城の城址は椿海に南面した標高45mの舌状台地上にある。城は北東〜南西を主軸として築造され,南側から本丸・一の丸・二の丸と続いている。南西端に小丘があり,物見台に利用されたとみられる。北西側には,内宿なる小字があり,城内の住宅地であったと思われる。その北側を北門と称し,付近に「小路【しようじ】の坂」という坂がある。その坂を上りつめた処に祀る不動尊を「橋本の不動」といい,城郭からの橋が架けられたのであろうという。このほか,城址付近には馬場・要害・根古屋などの小字がある。当城は,天正18年豊臣秀吉の小田原北条氏攻略に続く戦いで落城したとも,永禄年間に安房里見氏の重臣正木氏によって落城したとも伝えられる。天正18年以降と推定の北条氏人数覚書・関東八州諸城覚書には「蕪木駿河守 かふらき城 三百騎」などとある(毛利文書/旭市史3)。なお,六蔵寺所蔵「加持経」の応永27年6月1日付奥書(県史料県外)に見える「下総国匝瑳郡北条庄東方鏑木郷願勝寺真言道場」は,鏑木城の北西にあり,鏑木察胤が応永12年に建立したものといわれる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7292759
最終更新日:2009-03-01




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