ケータイ辞書JLogosロゴ 佐倉(中世)


千葉県>酒々井町

戦国期に見える地名下総国印東荘のうち作倉とも書く「成田名所図会」所引の海隣寺所蔵阿弥陀如来像永禄8年7月14日付銘文に「下総国印東庄佐倉長徳寺開山眼阿」とある(県史料金石2)康正元年の千葉城落城後の千葉介は,文明16年に至って千葉輔胤が当地を本城とし,以後天正18年の滅亡まで止まった(千学集抄/房総叢書)また,「竜大夫文書」中には,原大蔵丞邦長・胤長らが当地から発信した文書が多数伝存し,臼井城主原氏一族も千葉介の家中として当地に居住したことが知られる(県史料県外)その後,天文7年,第1次国府台合戦で小田原北条氏が小弓御所足利義明・里見義堯の連合軍を破ると,千葉氏は小田原北条に帰服し,当地も小田原北条氏の勢力下に入った年未詳8月18日付北条氏政書状には「川下より作倉へ入船を役可取事,不分別候,其故者,自由ニ舟来候而こそ,作倉之地下中も自由ニ可弁用所候へ」とあり(中野文書/県史料県外),当地に出入する船舶に対する千葉氏の課税を禁止しているまた,天正17年9月8日付北条氏直書状に「為物主奥州(北条氏照)出勢之間,作倉当番之外之者,一騎一人着到無不足,各可罷立候」とあるのは当地に小田原北条氏の城番衆がいたことが知られる(潮田文書/神奈川県史資料編3)当地は江戸期初頭の慶長15年に土井利勝が鹿島城主となって,鹿島城(近世の佐倉城,現在の佐倉市城内町)を再築,その付近を佐倉と称するようになると,本佐倉と呼ばれるようになった千葉惣領家の本佐倉城址は現在の酒々井【しすい】町本佐倉字城之内にあり,内郭・外郭からなる遺構がよく残存している(城郭大系6)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7293854
最終更新日:2009-03-01




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