ケータイ辞書JLogosロゴ 薩摩村(中世)


千葉県>鎌ケ谷市

 鎌倉期から見える村名。下総国相馬御厨南相馬のうち。文永9年ごろと思われる相馬胤村配分状(相馬文書/県史料県外)に「同(相馬)薩摩」と見える。文永9年10月29日の関東下知状(同前)からは「下総国⊏⊐(相馬カ)御厨内薩間・粟野両村」は平松若丸(相馬師胤)に譲与されたことがわかる。その後,当村は師胤から子息松靏丸(重胤)に譲与,その際,当村内「王四郎入道在家 又次郎在家合弐宇」は師胤の女房に一期相続されたことが正応2年2月20日の平某譲状(相馬文書/県史料県外)から確認できる。建武2年,重胤は当村を次男光胤に譲与した。その時,当村内の「山ふしうちの田在家一けん」が除外されたことが建武2年11月20日の相馬重胤譲状(同前)に記されている。この田在家は師胤から女房に譲与されたものと考えられるが,貞治2年8月18日の相馬胤家置文(相馬岡田文書/県史料県外)によると,「さつまのむらのうち,やまふし内」の田在家が岡田胤家から嫡子胤重に譲与された。光胤が建武3年5月,甥の胤頼に譲与した所領のほかに当村を見ることはできない。岡田胤重(胤繁)に譲与された当村内の田在家は,康暦3年5月24日の相馬胤繁譲状(相馬岡田文書/県史料県外)を見ると嫡子鶴若丸(胤久)に譲与されている。以後の相続は不明。応永2年のものといわれる南相馬村田数注文(相馬文書/県史料県外)には「さつまのむら 十二丁八反三百歩」とある。なお,地内には戦国期の佐津間城址があり,近隣からは南北朝期の板碑が20数基出土している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7293908
最終更新日:2009-03-01




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