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- 白坂村(近世)とは
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白坂村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方北西部,鬼光頭【きこうず】川沿岸に位置する河沼郡のうち会津藩領海道組に属す村高は,文化15年の村日記(県史10下)では536石余,「天保郷帳」572石余,「旧高旧領」219石余宝川村とともに越後国蒲原【かんばら】郡の諸村と海道組を構成した越後国との国境の黒森山と目指山から北流する鬼光頭川沿いに上流から端村柞畠【たらはたけ】・熊沢・楢木平・屋敷・河谷が点在する文政2年端村屋敷を屋敷村として分村化政期の家数21軒,端村河谷8軒・屋敷18軒・楢木平14軒・熊沢22軒・柞畠5軒(新編会津)当村は越後街道の駅所として下野尻村から車峠を経て鬼光頭川下流宝川村に継ぎ,村内には高札が立った神社は梵天神社・山神社端村河谷の鎮守羽黒神社は蘆名氏の支配時期までは神税があり,慶長11年蒲生秀行が参詣して白銀3枚,米20斗を寄付し改築したまた正月15日から17日まで神前に的をかけ,それを弓太郎・弓次郎に選ばれた村の男子が射落す行事があった(同前)端村屋敷に白山神社,端村楢木平に倉神社,端村柞畠に山神社がある寺院は寛永年間定運の再興による真言宗福衆山光明寺ほかに当山派修験富祐山照谷寺,同寺は延宝6年に会津4郡と小川荘の袈裟頭となり,正徳5年山寺の称号を得た明治4年の戸数26・人口130(若松県人員録)同8年宝川村と合併して宝坂村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」