ケータイ辞書JLogosロゴ 匝瑳北条(中世)


千葉県>干潟町

平安末期から見える地名下総国のうち下総国国衙領の1つで,後に荘園化した「和名抄」匝瑳郡が平安末期に分割再編されて成立したと推定される永暦2年正月日付源義宗譲状に「抑当厨(相馬御厨)相伝之理者……譲国司藤原親通朝臣,彼朝臣譲二男親盛朝臣,而匝瑳北条之由緒,以当御厨公験,譲給義宗也」とあるのが初見であるが(櫟木文書/平遺3121),「匝瑳北条之由緒」の具体的内容は不明しかし,藤原親盛の嫡男で皇嘉門院領千田荘領家判官代であった親雅(親正・親政)は,「源平闘諍録」に当地を本拠としたと見え,一時は千葉一族と対抗して勢威をふるった源頼朝挙兵時には,親雅は平氏方に属したため,千葉常胤に討伐され,当地は千葉一族の勢力下に置かれたとみられる建久8年の香取神宮遷宮用途注進状では「比(北)条庄」と見え,作料100石をもって社を造進(旧大禰宜家文書/県史料香取),寛元元年11月11日付造宮所役注文には「佐土殿社一宇〈匝瑳北条役〉千葉八郎」「内院中門一宇〈匝瑳北条〉飯高五郎跡」,文永年間の遷宮用途注文には「内院門一宇……作料官米柒拾斛 匝瑳北条本役,仍地頭等造進之」「佐渡殿一宇……作料官米参拾斛 匝瑳北条本役也,仍地頭等造□□」,下って南北朝期の康永4年3月日付造宮所役注文には「内院中門 同北条庄南北役所,地頭飯高彦二郎以下輩」「佐土殿 同北条庄役所,地頭飯高彦二郎」とある(香取神宮文書/県史料香取)同注文によれば,当地の地頭は千葉一族の飯高氏で,鎌倉期には2つの所領に分割され,南北朝期にはその一方がさらに数所に分割相伝されていたようである「神代本千葉系図」によれば,千葉介常兼子息で匝瑳八郎を称した常広の子息に飯高次郎将胤があり,将胤息として次郎親常・五郎高常を載せている(房総叢書)飯高氏は,鎌倉期〜南北朝期を通じて当地に蟠踞したが,室町期には衰え,応永5年には香取造営作料米は「北条庄内山内宮内少輔殿」に命じられている(香取神宮文書/県史料香取)当地域に含まれる中世の郷村には大寺郷(修徳院所蔵銅造阿弥陀如来正応3年3月15日付銘文/県史料金石2)・鏑木郷(六蔵寺所蔵聖教応永27年6月1日付奥書/県史料県外)・内山(滑川昇氏所蔵文書明徳元年2月21日付付法状/旭市史3)があり,これらによって,当地域が現在の干潟町西部から八日市場市北部にかけての下総台地上に位置したと想定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7294538
最終更新日:2009-03-01




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