ケータイ辞書JLogosロゴ 多賀郷(中世)


千葉県>下総町

 鎌倉期〜南北朝期に見える郷名。下総国神崎荘のうち。正元2年3月10日付千葉(神崎)師時配分状に神崎大明神御領田畠として「多賀分 三町壱段 畠七段」とある(神崎神社文書/県史料諸家)。建武4年8月の野本朝行子息鶴寿丸軍忠状によれば,「下総国神崎庄内多賀郷」は野本朝行所領であったが,千葉下総守一族が後醍醐天皇方として郷内に乱入したため,朝行は千葉余三清胤・朝行代官とともに,足利尊氏方として防戦したという(熊谷家文書/大日古)。同軍忠状に見える朝行代官多賀七郎行胤・多賀七郎三郎は当郷の住人であろう。南北朝期には,奥書に至徳2年帳の写しとある神崎荘所課祭礼物注文に「四石五升 高 大和田分」とあり,香取社祭礼物を所出している(香取神宮文書/県史料香取)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7294623
最終更新日:2009-03-01




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