ケータイ辞書JLogosロゴ 高柳村(中世)


千葉県>木更津市

 南北朝期〜室町期に見える村名。上総国望東【もうとう】郡金田保のうち。高柳郷とも見える。鎌倉末期の元(か)応2年10月27日の高梁荘々官等年貢米注進状案に見える「高梁御庄」は当村付近にあたるといわれるが未詳。康暦2年8月3日の室町幕府管領斯波義将奉書に「金沢称名寺領加賀国軽海郷与刑部少輔長康所領上総国金田保内高柳郷,同国佐貫郷内百貫文下地〈坪付在之〉,相博事」と見え,刑部少輔(町野)長康の所領であった当郷と佐貫郷の一部が加賀国軽海郷と相博され,この時武蔵国金沢称名寺領となったことが知られる。翌永徳元年8月3日付将軍足利義満御判御教書でもこの相博が安堵されており,さらに応永9年3月23日にも,鎌倉公方満兼御教書により両郷が称名寺領として安堵されている。康暦2年の上総国金田保内高柳村公事銭結解帳によれば,当村から収取される公事銭は32貫166文で,既進分の内わけは国衙方弁済分10貫500文,称名寺への寺納分2貫100文,主給分11貫462文,義妙・五郎次郎に給った分3貫500文,百姓祝分650文,大御堂修正料足100文,八幡宮神事分120文,荘主在国時などの諸雑費745文,このほか国衙方未進分2貫365文,百姓失跡による未進分621文などが見える。国衙方弁済分とは,鎌倉明王院五大堂の鎮守春日社に弁済された分である。当村を含む金田保は国衙領であるが,この頃同保の国衙領得分は春日社領となっていたのである。永享11年9月22日の称名寺領上総国金田保高柳村納帳にも「金田保内高柳村春日別納御⊏(年貢カ)」と見え,当村政所から10貫文が春日社に納められている。応永10年の上総国金田保内高柳村本秋畠結解状により,当村の畠地面積は11町余であったことが知られるが,同年の現作畠は7町9反余で,畠年貢として「分大豆」「加徴大豆」「延大豆」あわせて大豆10石4斗8升4合と,夫賃770文が納められている。また当村の年貢米未進状況を示す年月日未詳の上総国金田保内高柳村年貢米向物注文によれば,未進の代償(向物)として鍋・馬を取ったのが耕作者4人分3石1斗4升8合,未進分の借状・請状を差し出させたのが同5人分6石5斗9升2合,耕作者逐電による未進分が4人分2石8斗9升2合,理由は不明であるが全額未進分が2人分1石8斗9升となっている。応永6年12月6日付外宮神宝料足請取状によれば,応永年間の伊勢外宮造営に際しては,外宮神宝料足として6貫文が当村から納められている。また応永16年閏3月2日付の称名寺修造料足日記によれば,称名寺の「庫院板敷等」のうち板代を当村が負担したことがわかる。伊勢外宮の神宝料足は当村内の公田数を基準にして反別に賦課されたいわゆる段銭であったと推定されるが,年月日・徴収目的ともに未詳の上総国金田保内高柳村炭(反か)銭目録には,当村内のものと推定される「三郎承名」以下14名【みよう】と,「高柳蔵王堂免」の田数計14町4反10歩に対して,反別34文の炭銭が賦課されたことが見える。なお応永31年9月26日付僧禅浦借用料足請取状に,「右料足(十貫文)者,金沢二むろ坊主賢如御房の取ぬしとして,高柳の百しやう等連書(署)たるによつて,借申候処を」とあるのは,当村百姓らが賢如御房なる者に銭10貫文を貸し与えたことを示すものか。室町中期の宝徳3年12月22日付「小供養法」奥書には,鏡心なる者が「上総国金田保高柳」において,小供養法を受けたことが見える(以上金沢文庫古文書7)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7294727
最終更新日:2009-03-01




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