ケータイ辞書JLogosロゴ 埴生荘(中世)


千葉県>栄町

鎌倉期から見える荘園名下総国のうち建久8年の香取神宮遷宮用途注進状に「埴生庄二百斛 究済了」とあり,香取社式年遷宮の作料米が賦課されているその後も,寛元元年11月11日付造宮所役注文に「楼門一宇 埴生印西所役」,南北朝期の康永4年3月日付造宮所役注文にも「一宇 楼門 同植(埴)生庄所役」とある(香取神宮文書/県史料香取)当荘は律令制下の埴生【はにう】郡から埴生西条・遠山方郷などが分立した残部が荘園化したものと思われるが,「神代本千葉系図」には上総常澄の子息に埴生六郎常益が見え(房総叢書),平安末期には当荘の在地領主は上総氏であったらしい寿永2年暮,上総介広常が討滅されると,千葉氏の手に帰した千葉介常胤死後は常胤孫常秀が譲得,さらに常秀死後は子息時常(埴生次郎)が相伝した当荘は,しばしば時常の兄秀胤の押領するところとなったが,宝治元年6月,三浦泰村の乱(宝治合戦)の余波をうけて,大須賀(千葉)胤氏が秀胤を攻めた際には,時常は秀胤とともに自害し,勇士の美談と讃えられた(吾妻鏡宝治元年6月7日条)当荘は宝治合戦の恩賞地として足利左馬頭正義(義氏)に与えられ(吾妻鏡宝治元年7月14日条),その後,正義嫡子宮内少輔泰氏が相伝したが,泰氏は建長3年,幕府の許可なく当荘で出家したため,所領を没収され,同年12月,当荘地頭職は北条(金沢)実時に与えられた(吾妻鏡建長3年12月2・7日条)この後,実時から嫡子顕時が伝領し,弘安8年の霜月騒動の際には,安達泰盛の女婿として事件に連坐した顕時は当荘に配流されている(賜蘆文庫文書弘安8年12月21日付金沢顕時書状案/神奈川県史資料編2)年欠の金沢貞顕書状には「埴生庄,北郡両政所以下事」とあり,当荘に荘政所が置かれたことも知られる(金沢文庫古文書)鎌倉幕府滅亡後は,地頭職は足利尊氏から佐々木道誉に恩給されたが,千葉氏の押領によって支配は困難であったらしい(佐々木文書年未詳5月18日付足利尊氏書状案/神奈川県史資料編3)金沢氏との関係から当荘は,金沢称名寺に寄進されて寺領となり,年未詳称名寺領年貢米注進状には当荘年貢37石4斗7合余が記され(金沢文庫文書/県史料県外),正和4年には金沢顕時後妻で安達泰盛女と推定される慈性尼が荘内の山口郷(現成田市山口)・南栖立村(比定地未詳)を称名寺に寄進している(新編武蔵風土記稿正和4年2月1日付慈性寄進状/県史料県外)また,嘉元3年4月28日付金沢瀬戸橋造営棟別銭注文では,当荘は19貫876文を負担している(金沢文庫文書/同前)荘内竜角寺(現栄町竜角寺)では永仁4・5年に僧朗海,延慶2・3年に僧心慶が談義・著述などの活動をし(金沢文庫所蔵聖教/県史料県外),また,同寺からは天台学僧明鑁が出,その従兄弟で荘内の釜山(比定地未詳)に住した明尊も学僧として名があった(逢善寺文書/県史料県外)このほか,羽鳥郷(現成田市北羽鳥)でも聖教の書写活動があるなど(金沢文庫所蔵聖教/県史料県外),当荘と称名寺の関連は密接であったなお,天正〜文禄年間の検地帳類によれば,竜角寺郷のほか,福田郷(現成田市上福田・下福田)・長沼村(同市長沼)・佐野村(同市佐野)も当荘内に含まれるとしている(県史料諸家)また,近世の八生村は中世には荘域内であったと考えられる以上によれば,荘域は東は根木名川,西は印旛【いんば】沼・長門川,北は利根川を限りとする下総台地北縁部に位置し,現在の成田市西北部から栄町東部にかけての地域に比定されよう
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7295978
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ