ケータイ辞書JLogosロゴ 百首(中世)


千葉県>富津市

 戦国期に見える地名。上総国天羽郡のうち。「快元僧都記」の天文2年7月27日条に「百首之要害」と見え,当地に城郭が構築されていたことがわかる。同日条によれば,里見義豊は里見氏の本宗である叔父実堯を攻撃して自殺させたが,その遺臣が「百首之要害」に籠城し,小田原北条氏の援助を要請したという。その義豊も翌年,実堯の嫡子義堯によって滅亡し,義堯が里見氏の当主となった。天文6年5月,真里谷一族に内紛が起こり,その一派が小田原北条氏の援助を得て峰上および百首の2城を拠点とした。しかし里見義堯の攻撃を受けてその一派は小田原北条氏のもとに逃れたらしい。ところで天正6年5月,里見義弘の死後,里見氏に内紛が発生,義弘の実弟義頼と義弘の実子春王丸が対立した。「関八州古戦録」によれば,上総国を相続したはずの春王丸が義頼のために出家させられたのが内紛の原因で,春王丸が義頼を攻撃,「ひやくしゆ」を攻め落として奪い取ったことが天正8年11月白我書状(椙山文書/県史料諸家)に見える。しかし義頼の反撃にあって再び攻略されその支配下におかれている。ところで「里見代々記」によれば,文明3年のこととして真里谷丹波の築いた「海【つくらうみ】」の城を里見義実・義成の父子が攻撃した際,真里谷丹波はこの城周辺の景色を即座に百首の和歌に詠むことができれば開城することを申し出た。これに対し里見の将兵はたちまち百首の和歌を詠んだので開城となり,以後はこの城を百首城と称したという。天正17年10月13日の里見義康朱印状写(武州文書/県史料県外)によれば,房州から武蔵・下総に向かう廻船は必ず「百首之湊」に寄港すべきこと,違反の船は即刻処罰すべきことなどが正木淡路守に命令されている。したがって,当地の城も正木氏が守備していたものであろう。またこの正木淡路守と,天正18年と思われる関東八州諸城覚書(毛利家文書/大日古)に見える「上総つくろふミ 真崎淡路守家城」とは同一人である。当時,「百首之湊」と「つくろふミ」とが併存しており,百首と津久良海とが同一地域かどうかは確認できない。百首城址は富津【ふつつ】市竹岡字城山に現存する造海城であり,その周辺が百首に比定されよう。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7296143
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ