ケータイ辞書JLogosロゴ 青戸村(近世)


東京都>葛飾区

 江戸期〜明治22年の村名。葛飾郡西葛西【にしかさい】領のうち。幕府領。検地は慶安元年,元禄8年。「田園簿」の村高1,058石余,うち田885石余・畑172石余。他に宝持院領5石。「天保郷帳」の村高1,189石,「旧高旧領」では1,185石余。江戸中期以降,村の東南を表青戸,西南を西青戸とよぶ。化政期の家数135軒(新編武蔵)・人口790(葛飾区史)。助郷は水戸佐倉道(水戸街道)新宿【にいじゅく】・日光街道千住宿(足立区)へ出役。蔬菜や草花を栽培し,江戸市中へ出荷。享保14年,井沢弥惣兵衛が開削した村の東方の中川沿いには,瓦・植木鉢等を焼く農家が並ぶ。寺院に末寺30か寺と寺領5石余を持つ新義真言宗宝持院や,同宗延命寺などがある。鎮守は中川堤辺りの三社明神社。第六天社・弁天社は延命寺持ちの小社だが,高い塚の上にあり,かつての葛西城内の鎮守であったといわれる。村内の仕置塚とよばれる塚は,鎌倉北条家に仕えた青砥左衛門藤綱の頃の刑場の跡といわれる。西青戸の内には,室町中期関東管領上杉氏によって築かれ,戦国期小田原北条氏の出城になった葛西城の跡があり,近世初期には将軍家鷹狩りの休息所として城跡に御殿が造営された。明暦13年に御殿は廃止され,御座所のあたりを残して陸田となったが,その付近には大手前・陣屋・鷹部屋【たかべや】等の小名が残されている(新編武蔵・葛西志)。明治5年の戸数161・人口869(府志料)。同5年東京府,同11年からは南葛飾郡に所属。同22年亀青【かめあお】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7297649
最終更新日:2009-03-01




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