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「江戸」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 江戸川【えどがわ】 利根(とね)川水系の川で,県東部,千葉県との県境を南北に流れる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 江戸崎村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 江戸城【えどじょう】 (中世~近世)鎌倉~江戸期の城名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 江戸城(中世~近世) 鎌倉~江戸期の城名鎌倉期から戦国期までは江戸氏・太田氏・扇谷上杉氏・遠山氏が,江戸期は徳川氏が居城現在江戸城の大半は,皇居となり,わずかに往古の面影をとどめる所在地は千代田区千代田江戸氏は,高望王の末裔で「吾妻鏡」治承4年10月3日の項に江戸太郎重長の名が見える重長の居館は,江戸期の本丸,紅葉【もみじ】山のある台地の一画と推定され,居館に向かって日比谷【ひびや】入江が入りこみ,居館の北東側は平川が流れ,西側は武蔵野台地に連なり,南側には赤坂の溜池【ためいけ】をひかえ,自然の要害をなしていた康正2年から翌長禄元年,扇谷上杉氏の家宰太田道灌が江戸氏の居館跡に江戸城を築いたこの江戸城は,外城・中城・子城からなり,城の中心に当たる中城には,静勝軒と称する居室をはじめ,泊船亭・含雪斎などの建物があった当時の城下は,平川河口を中心とし,河口は房総・常陸方面からの物資を運ぶ船舶でにぎわったというまた江戸前島は,河口南側にあったと推定される道灌は文人としても知られ,詩僧万里集九・禅僧蕭庵龍統らが江戸城を訪れ,静勝軒には京都五山の詩文が,掲げられていた道灌の名は,現在皇居内の吹上【ふきあげ】御苑と紅葉山の間にある道灌堀に残る文明18年道灌は,主家扇谷上杉定正により暗殺され,扇谷上杉氏が江戸城に入った扇谷上杉氏の支配は,定正・朝良・朝興の3代に及んだ大永4年道灌の孫太田資高が朝興にそむき,小田原北条氏に内通したため,江戸城は北条氏綱の手に落ち,小田原城の一支城となった氏綱は,家臣の富永政直に本丸を,遠山宗忠・直景に二の丸を守らせ,太田資高には城内香月亭近くに屋敷地を与えたのち家老遠山綱景が城代となり,天正18年まで綱景・康景・直親・直景・景政の3世5代にわたり遠山氏が江戸城を支配した「役帳」によれば,江戸城周辺には,芝崎【しばざき】・下平川【しもひらかわ】・上平川・日比谷本郷【ひびやほんごう】・一木貝塚【ひとつぎかいづか】・桜田・前島森下・国府方【こうかた】・神田・局沢【つぼねざわ】の10郷村があり,城下は平川両岸に位置する芝崎・下平川・上平川を中心に発展していた10郷村を領したのは15名であるが,うち江戸衆が13名を占める同書によれば江戸衆のうち筆頭は,太田大膳亮「百拾七貫四百廿一文 江戸 芝崎一跡 丸子分」で,次いで遠山丹波守(綱景)「百壱貫八百五拾文 江戸廻 上平川」と記すほかに王子社が下平井・上平井で23貫680文を領し,また局沢は,江戸期の吹上・北の丸の地に当たり,日蓮宗・天台宗などの16か寺院があった天正18年,徳川家康が入城した当時の状況は「慶長見聞集」に,「町屋なども,かや葺の家百ばかりもあるか無の体,城も形ばかりに,城のようにも是なく」「春は桃桜躑躅などの花も咲出で,江戸中貴賤の遊山所にいたし」とあり,また「落穂集」は「城門の前には市鄽ありて商人市をなし,諸国の産物名品この所に輻輳せり又城の東の堺に川あり,その流曲折して南の方の海に入,この川に商賈の船,又猟師の釣舟など常に往来たえざりける」と記す当時の江戸城は,のちの本丸・三の丸・大手門にわたる範囲で,大手門に向かって日比谷入江が入りこんでいた江戸城の普請は,文禄元年西の丸築造を初めとし,慶長11・12年,元和4・6・8年にわたり,寛永年間までに,浅草御門を起点とする外郭と内郭に囲まれた江戸城が完成し,全国の政治支配の中心地となった内部は,本丸・西の丸・吹上・北の丸からなり,西の丸北側には歴代将軍の霊をまつる紅葉山があった明暦3年,明暦の大火で江戸城の大半が焼失し,天守閣は以後再建されなかった「武江年表」は牛込【うしごめ】・田安・神田橋・常盤橋【ときわばし】をはじめ各御門の焼失を伝える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 江戸日本橋【えどにほんばし】 東海道、東山道、山陽道などの七道は、都から各国府を結ぶ幹線道の名称であるとともに、行政区分の名称でもあった... |
出典:日本実業出版社「道と路がわかる事典」
![]() | 江戸の中期に現れた新しい“日本の”学問(国学) ◎国学をつくり上げた4人の日本人 「国学」とは、日本の古典や古代史を研究することによって、儒教や仏教が導入される前の、日本人の精神を明らかにし、我が国独自の思想(古道)を究明してゆこうとする学問である... |
出典:日本実業出版社「早わかり日本史」
![]() | 江戸時代、文化の担い手は武士から町人へ ◎絢爛豪華で明るい信長・秀吉の文化 戦国時代後期の文化を、安土[あづち]・桃山文化という... |
出典:日本実業出版社「早わかり日本史」
![]() | 江戸町【えどまち】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 江戸町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は長崎内町の1町船手に属した長崎港に注ぐ中島川河口右岸に位置する享和2年の長崎絵図によれば,長崎の西端の町で,町並みは南北に湾曲し,中央部西端は出島町と橋で連絡していた天正13年から文禄元年の間に町建てがなされた天正16年豊臣秀吉の直轄領となり,他の内町22町と同様に地子銀が免除された当町は長い岬,いわゆるナンカミサキの先端である森崎の地を切崩して造成されたもので,町並みは寛永11年の出島造成で一層整備されたものとなり,さらには出島オランダ商館に隣接しているということで,コンプラ仲間やオランダ通詞楢林家の邸宅など,オランダ貿易に関係する施設や家が多かった当町の紋章はJとDとMを組み合わせたもので,俗に「たこのまくら」と呼ばれているこれは寛政年間にオランダカピタン某が当町に贈ったと伝えられるもので,J・D・Mは,オランダ人がエドマチをJEDOMATSIと綴ったことに由来する寛文3年の町の長さ127間・家持16(寛宝日記),同12年の町の長さ108間,実箇所数20,諸役御免箇所4(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば坪数3,050坪(地子銀免除),箇所数28,竈数120,戸数141・人数414(男216・女198)乙名職は,明暦~寛文年間は吉田惣兵衛であったが,宝永2年吉田権八が免職になってからは若杉喜三太(宝永2年~享保12年)が任じられ,以後八百右衛門(享保12年~宝暦9年),八百右衛門(宝暦10年~安永元年),猪三太(安永2年~文化8年)と若杉家が世襲したが,文化9年に白浜八弥太に代わり,以後,嘉四郎(文政年間),八郎太(文政年間),永左衛門(文政年間),岩蔵(天保年間),重三郎(天保~弘化年間),芳助(嘉永年間),熊次郎(安政2年以降)と白浜家が世襲した明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には大阪海上火災保険会社長崎支部・松本汽船や旅館・回漕業・からすみ製造業・ガラス商・雑貨商・銅鉄商・貿易商・穀肥商・石油商・べっ甲商・船具商・医院・歯科医院・薬舗などがあり,また日本足袋株式会社やビヤホールなどがあった昭和3年の戸数86,同10年の戸数100・人口661,同50年の世帯数104昭和38年一部が樺島町となり,外浦【ほかうら】町・本下町・築町・玉江町1~3丁目の各一部を編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 江戸川【えどがわ】 県の西端を流れ,東京湾に注ぐ利根川の分流... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 江戸時代にはなぜ仇討ちが盛んだったのか ◎仇討ちは男色からはじまった 「仇討[あだう]ち」というのは、主君や近親者が殺されたとき、家臣や一族の者が復讐のために相手を殺すことだが、江戸時代の仇討ちは、なんと男色からはじまったのだ... |
出典:日本実業出版社「早わかり日本史」