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「大村」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

大村


明治期~昭和43年の村名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7298240]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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大村藩【おおむらはん】

(近世)江戸期の藩名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

大村藩(近世)
江戸期の藩名肥前国彼杵【そのぎ】郡大村に居城を置く外様藩藩主は大村氏柳間詰居城は大村に所在する玖島城で,またの名を大村城ともいう朱印高は2万7,973石鎌倉期の地頭より発展した大村氏は,島原の領主有馬家から養子に入った純忠時代に,戦国大名としての地歩を固めたが,隣接諸大名との激しい抗争や一門・家臣団の統制に苦慮し,キリスト教による思想統一と長崎の開港・寄進による外国貿易の独占を通じて,領主権の確保につとめたしかし,一時竜造寺氏の麾下に属したこともある天正15年豊臣秀吉の九州仕置ののち,初代藩主喜前は旧領を安堵され,近世大名としての地位を確定したが,それと同時に発布されたバテレン追放令と長崎の収公によって,貿易利潤に終止符が打たれ,藩財政は成立当初から極度の窮乏をきたした喜前は朝鮮出兵を契機に,兵農分離や家臣団の統制を通じて,自己の領国支配を実現したが,慶長12年「御一門払い」を断行し,庶家一門を追放して蔵入地を拡大し,藩権力を強化しながら,成立期の財政窮乏を克服した喜前ののち,大村氏は旧族居付のまま1度の転封をこうむることなく,純頼・純信・純長・純尹・純庸・純富・純保・純鎮・純昌・純顕・純熈と12代にわたって藩政を継承し明治維新を迎えた「御一門払い」後の慶長17年,総検地を実施し,高2万7,973石としたが,これが大村藩の朱印高となって幕末まで継承された所領は,元和3年の朱印状によれば,大村・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・川棚・波佐見・宮・伊木力・佐瀬・長与・高田・時津・滑石【なめし】・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上木場・戸町・日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・川内浦・横瀬浦・面高【おもだか】・天久保・大田和・中浦・多比良【たいら】・瀬戸・雪浦・神浦【こうのうら】・黒崎・三重・陌苅【あぜかり】・式見・福田・大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の48か村,高2万7,973石余「寛文朱印留」でも同じこれらの村は,地方【じかん】(東彼杵郡),向地【むかいじ】(西彼杵半島基部),内海【うちめ】(西彼杵半島内側),外海【そとめ】(西彼杵半島外側および大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の5島)の4地区に大別されて管轄された地方地区は大村・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・川棚・波佐見・宮の11か村,向地地区は伊木力・佐瀬・長与・高田・時津・滑石・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上木場・戸町の11か村,内海地区は日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・川内浦・横瀬浦の8か村,外海地区は面高・天久保・大田和・中浦・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・黒崎・三重・陌苅・式見・福田・大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の18か村からなるただし,その後分村が行われ,地方地区では郡村が竹松・福重・松原の3か村に,波佐見村が上波佐見・下波佐見の両村に分かれ,内海地区では大串村が三町分・下岳・亀浦・中山・宮浦・白似田の6か村に分かれ,また西海村が村松・子々川【ししがわ】の2か村を,長浦村が戸根村を,形上村が尾戸・小口の2か村を,八木原村が小迎村を,川内浦村が伊ノ浦・畠下浦の2か村をそれぞれ分村し,外海地区では天久保村が黒口村を,多比良村が七ツ釜浦村を,大島村が黒瀬村を,嘉喜浦村が崎戸浦村を分村したこうして地方地区は11か村から14か村に,内海地区は8か村から21か村に,外海地区は18か村から22か村に増加し(向地地区は変わらず),合わせて68か村になったなお,向地地区の戸町村は安政4年に収公されて幕府領になり,翌5年代地として高来【たかき】郡古賀村が与えられた一方,「御一門払い」を契機に,庶家一門に代わって在地土豪が譜代とともに藩政中枢に進出し,家老・城代などに任命されて初期藩政を主宰した城下集住を免れた在地給人は,「御一門払い」によって追放された庶家一門の家来,すなわち在地陪臣団とともに,村大給・小給などの下級の在地家臣団に編成されたここに大村藩においては,家老・城代などの上級家臣団を基軸に軍事的編成に基づく新しい身分制秩序が形成されたが,4代藩主純長の寛文年間には,武家法令をはじめ各種の農民法令が発布され,政治組織から貢租収取体系・村役人の制度に至る藩制の諸機構が整備・強化された検地は貞享元年~元禄8年にも実施され,総高5万38石余となり,以後固定した元禄10年の財政目録によれば,藩領は蔵入地2万8,966石余(59%)・給知2万1,072石余(41%)の割合で,地方知行制をとる藩としては給知率がきわめて高かったこの給知率の高さは,領内に主要産業がなく米穀生産に依存した当藩の財政事情によるところが大きく,また初期以来強力に推進された新田開発も極限に達し,天和~元禄年間には財政難が顕在化していった宝永3年には毎年1万両の赤字が累積し,江戸・大坂の商人から5万両の借金をするに至っているここに6代藩主純庸の享保4年,家臣団の知行制の改革を中心とする享保改革が断行された9代藩主純鎮は,寛政元年詳細な「御教論」を発布し,藩政の広範な刷新を断行したが,財政窮乏はさらに進行し,こうして10代藩主純昌による広範な藩政改革(化政改革)が断行されるそこでの改革の内容は,知行制の改革をはじめ,貢租収取体系の全面的な改正と強力な流通統制策の実施にあった11代藩主純顕は,天保改革に取り組み,禄制改革を実施する一方,先の化政改革を修正して,新たな流通統制策を打ち出したが,12代藩主純熈は,安政3年「大村郷村記」(全79巻)の最終完成を期して,領内生産力の強力な把握を実現する一方,外圧に対応する軍制改革を断行し,西洋銃の一斉採用と銃隊編成によって軍事力の近代装備化を図った大村藩においては,元治の政変において,尊攘派が佐幕派に代わって藩権力を掌握することに成功し,「尊王」の2字に藩論を統一して,活発な藩外行動を実施し,薩長連合を画策した尊攘派は,こうした実践行動を通じて討幕派に発展したが,慶応3年の藩内党争を契機に,村大給・小給・足軽などの在地家臣団をも包括する広い層の討幕派軍隊が成立し,薩長両藩と行動をともにして,挙藩倒幕へと突入し,その功績によって3万石を与えられ,薩長両藩の各10万石,土佐藩の4万石についで,鳥取・大垣・松代・佐土原の4藩とともに第3位に列した「藩制一覧」によれば,明治初年の草高5万454石余,うち朱印高2万7,973石余・込高新田改出5,360石余・再改出1万7,120石余,5か年平均の正租米2万1,392石余・銭157貫文余,ほかに諸税金は煎海鼠438貫文余・櫨実1,212貫文余・石炭1,000貫文・茶2,000貫文・陶器100貫文・炭400貫文・塩479貫文余・椿171貫文余,総戸数2万5,626・総人口12万539(男6万626・女5万9,913),うち士族1,821・9,371(男4,535・女4,836),兵卒222・1,005(男517・女488),卒族676・2,937(男1,481・女1,456),寺35「旧高旧領」では,彼杵郡内で大村・萱瀬・鈴田・三浦・千綿・彼杵・川棚・上波佐見・下波佐見・宮・伊木力・長与・時津・浦上・長浦・大串・川内・横瀬・面高・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・三重・式見・福田・松島・平島・竹松・福重・松原・七ツ釜・黒瀬・崎戸・下岳・亀浦・村松の37か村,高5万9,591石余,高来郡内で古賀村の1か村,高448石余明治4年7月廃藩置県により大村県となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大村宿【おおむらじゅく】
江戸期の宿駅名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

大村城下(近世)
 江戸期の城下名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大村市(近代)
 昭和17年~現在の自治体名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大村【おおむら】
大村湾の東岸に位置する...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

大村町【おおむらまち】
(近世~近代)織豊期~昭和38年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

大村町(近世~近代)
織豊期~昭和38年の町名江戸期は長崎内町の1町陸手【おかて】に属した長崎港に注ぐ中島川河口右岸に位置する享和2年の長崎絵図によれば,長崎の西端に立地し,町並みは東西に延び,東は本博多町,西は外浦【ほかうら】町に隣接していた元亀元年戦国大名大村純忠が領内長崎港をポルトガル貿易港としたことに伴い,諸地域から長崎に流入する人口が激増したため,同2年純忠が港に突出した岬の高台に建設した六か町の1つ成立前の当地については,草原(カリアン書簡),麦畠(長崎剳記),森林(耶蘇会史)とも諸説があり,一定しない町割は大村純忠の家臣朝長対馬守が実施した町名の由来については,町建ての際,大村から来住した者が主体をなしたことによるものらしい天正8年4月純忠がイエズス会に寄進したことにより,教会領となったが,天正16年豊臣秀吉の直轄領となり,他の内町5町とともに地子免除となった寛文3年の町の長さ169間・家持29(寛宝日記),同12年の町の長さ168間,実箇所数36余,諸役御免箇所4(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば坪数1,774坪余(地子銀免除),箇所数38余,竈数69,戸数80・人数179(男86・女93)町年寄高島家本邸(1,024坪・除税地)や医学伝習所(安政4年~文久元年),砂糖地売所(天明5~8年),樟脳座(明和5年~天明2年)などがあった乙名職は明暦年間頃は帯屋作兵衛であったが,元禄9年から正徳3年まで小西吉平次が勤め,以後小西徳平次(正徳3年~元文2年),清田作吉(元文2年以降),清田安次郎(寛延3年~宝暦8年頃),島谷佐嘉右衛門(明和2年~寛政7年),田辺助四郎(文化4年頃),田辺敬十郎(文化11年~文政11年),田辺源之助(天保2年頃),田辺政八郎(天保14年~嘉永4年),田辺安之進(嘉永5年~慶応元年),田辺牧太郎(慶応元年~明治元年)などが勤めている明治11年長崎区,同22年長崎市に属す大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には明治生命保険株式会社長崎支店・神宮神部署長崎支署・東京火災保険株式会社長崎代理店・長崎海運株式会社・長崎県農業銀行や旅館などがあった当町のくんちの傘鉾は,町名を元禄8年北島雪山が揮毫したと伝えられる金色の串抜き三ツ団子であった昭和3年の戸数28,同10年の戸数31・人口151同38年万才町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

大村郷(近世)
 江戸期~明治22年の郷名...

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