ケータイ辞書JLogosロゴ 上尾久村(近世)


東京都>荒川

 江戸期〜明治22年の村名。豊島郡峡田【はけた】領のうち。検地は正保4年など。寛永2年10〜12月,2代将軍秀忠は三河以来の御手鷹師の阿部正勝に110石,羽田正重に23石余,斎藤吉勝に19石余の知行地をあてがう。村内はほかに幕府領と加藤氏領88石,大屋氏領19石余の入会(記録御用所)。幕府領と加藤領はのち東叡山寛永寺(台東区)領と大屋・安井家領となった。「田園簿」の村高は635石余。田541石余・畑94石余で,8割以上が水田。元禄期には788石余(元禄郷帳),幕末期には992石余となる(旧高旧領)。東叡山領は江川佐十郎が世襲名主。村内に石神井【しやくじい】用水を引く。隅田川の対岸足立郡小台【おだい】村とを結ぶ尾久の渡しがあり,小台の渡しともいった。化政期の家数は134軒(新編武蔵)。鎮守は八幡社。ほかに稲荷社・熊野社・第六天社。寺院には新義真言宗宝蔵院・同花蔵院,真言律宗地蔵寺がある。花蔵院には観応2年の板碑と名主佐十郎家代々の墓があり,明治11年尾久小学校の前身である私立田辺小学校が開校。八幡社付近に第六天塚・十三坊塚などの古塚があった。化政期に松平但馬守抱屋敷があり,小名に十三坊・西馬場・山谷【さんや】・石神・高木・久保田などがある。明治元年東京府,同11年北豊島郡に所属。同5年の戸数151・人口904(府志料)。同22年尾久村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7298600
最終更新日:2009-03-01




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