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「品川町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
品川町(近世~近代)
江戸期~昭和7年の町名日本橋の西北「狂歌江都名所図会」に,「都路へのぼるはじめの日本橋品川町を眼のあたり見て」と詠まれている町名は鎧の製作に用いる品革の細工人が...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7299435]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 品川町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名金沢城下町のうち,地子町の1つ明治22年からは金沢市の町名町名の由来は藩士品川左門雅直の屋敷地があったことによる(古蹟志)雅直は3代藩主前田利常に小姓として仕えて最も重用され,3,000石取りの人持組になった(郷土辞彙)万治元年10月12日小松城で利常が逝去すると,葬儀や政務を終えたあと,12月4日金沢へ帰り小立野【こだつの】宝円寺で殉死した殉死の時期が遅かったため臆病の風評が立つことを懸念し,幕を上げて門前まで見えるようにし,切腹を公開した(古蹟志)時に年32歳品川氏の住所は元禄6年の侍帳諸士所付には「品川隼人 田町」とある(稿本金沢市史)嘉永年間侍帳にも「品川左門 田町」とある寛文2年3月,田井村仁兵衛,三右衛門,市兵衛が連署で算用場へ差し出した書上げに古市氏・品川氏ならびにその与力衆へ田井村田地から屋敷地を差し出せと言われて迷惑している旨が記されている(古蹟志)ことから,田井村領であったことがわかるしかし同じ「嘉永年間侍帳」には村上与一(200石)品川町とあり,おそらく元禄以後に与力衆の住んでいた地域だけに用いられた町名と思われる「稿本金沢市史」は,明治5年蔵人町が品川町と改称したとするが,「嘉永年間侍帳」には蔵人町の名は見えない延宝の金沢地図に品川蔵人と見えて,雅直の子直幸の邸地が記されており,蔵人町と俗称されたと思われる明治初期には蔵人屋敷地や江戸期に坂倉善兵衛(150石)田町品川向と呼ばれたところも品川町に合併したものと思われる「皇国地誌」には「板前町ノ東北ニ並行シ,西南柿木町ヨリ東北三十人町ニ続ク弐町弐拾間許,幅凡壱間四尺」とある大正5年の戸数4・人口23昭和30年の世帯数78・人口331(うち男157・女174)同41年天神町2丁目に編入され,町名は消滅 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」