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- 下小松村(近世)とは
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下小松村(近世) 江戸期~明治9年の村名庄内地方,庄内平野北部,日向川と月光川の間に位置する地名の由来は,小松は古代遊佐【ゆざ】駅の駒所【こまどころ】だったことによるはじめ遊佐郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうちはじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領遊佐郷に属す村高は,元和8年の御知行目録では66石余,寛永元年の庄内検地高辻では334石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに354石余享和3年の御郡中村数家数人高控帳(遊佐町,斎藤家文書)では,家数33軒・人数152幕末期の「荘内要覧」によれば,免5ツ7分,家数26軒鎮守日枝神社は大山咋命のほか2神を祀る村内東部には薬師神社がある境内に皇太神社・八坂神社の小祠があり,東の畑中には山の神の祠がある曹洞宗宗泉寺は慶長18年永泉寺22世格翁泉越禅師が,当地に1宇の伽藍を建立したのにはじまる明和6年5世民孝和尚は庫裡を建立し中興の祖といわれる(山形県寺院大総覧)丸川戸【まるこど】と称する所には江戸期に川船の船着場があった鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年上小松村と合併して小松村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下小松村(近世) 江戸期~明治8年の村名小松ともいう会津地方中部,阿賀川(大川)の西岸に位置するもと小松といったが,大沼郡にも小松村があったため,慶安3年下小松としたという(会津風土記/風俗帳1)会津郡のうち古くは門田荘に属したという(会津鑑)会津藩領橋爪組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では,小松として618石,文化15年の村日記(県史10下)では885石余,「天保郷帳」では端村の松野を含めた高と思われ1,072石余,「旧高旧領」925石余端村松野,小名に四壇がある化政期の家数は,本村47軒・四壇8軒・松野10軒(新編会津)阿賀川(大川)西岸にある三本松は渡し場であった米倉2屋あり,1屋は社倉,一屋は橋爪組の米を納めた神社は感応神社・稲荷神社,寺院は曹洞宗東陽山常徳寺感応神社は明治2年社殿改築して多賀神社と改称明治8年両堂村・新在家村・松野村と合併して古舘村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下小松村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」