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- 白銀町(近世~近代)とは
「白銀町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 白銀町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治44年までは牛込【うしごめ】を冠称古くは豊島郡野方【のがた】領牛込村に属し,慶長年間に江戸城修築の際田安(千代田区)の住民を移して開創,白...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7299771]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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白銀町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は高崎城下町の1町で,明治22年高崎町,同33年からは高崎市の町名となる南から西にかけて連雀町,東は通町・北通町,北は元紺屋町に接する町名の由来は,昔この町に白銀師がいたことによる(高崎志/高崎市史)当町と元紺屋町の間の東側は武家地(同前)当町はもと鞘【さや】町の一部で,人家の増加により分かれて一町となったが,その前に白銀師は鞘町へ移って町内に居住しておらず,白銀師との縁は町名に残るだけとなった(同前)明和元年の高崎城城郭・武具并城下町・所領明細書上(高崎市立図書館蔵文書/県史資料編10)は,竪町通り筋10町のほかに14町を掲げ,その14町に当町名が見える地子銭を納める町で,文化年間の高崎藩町方式(愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫/県史資料編10)では,唐沢年貢(地子銭)地15町の1つとして見え,その額は銭17貫134文とある天保11年の唐沢分持高帳では,唐沢年貢の計算として,屋舗5反2畝27歩,1貫500文取,ただしうち4畝歩を名主役地引とし,残4反8畝27歩,この鐚7貫335文・目銭305文とある(更正高崎旧事記/高崎市史)また明治9年には,宅地1,645坪6勺,この地価金292円28銭9厘となっている(同前) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
白銀町(近世~近代) 江戸期~現在の町名裏門通出水上ルの町寛永14年洛中絵図では畑地に描かれている寛保初年京大絵図に「つちや丁」と見え,「宝暦町鑑」には現町名が記される当町から西の弁天町にかけての地域に,「天秤堀」と称する堀があり,寛政年間までは水をたたえていたという(宝永2年洛中洛外絵図・聚楽城趾形勝図)これは,聚楽第の南を東西に走っていた濠の一部が残存したものと考えられている(府史蹟勝地調査会報告1)江戸期は聚楽組新シ町の辰巳組,明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】14番組,同5年第18区と改称,同25年第14学区に編成明治12年上京区白銀町,同22年京都市上京区白銀町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
白銀町(近世~近代) 江戸期~昭和45年の町名金沢城下町のうち,地子町の1つ明治22年からは金沢市の町名町名の由来は白銀師が居住していたことにちなむという(郷土辞彙)文政6年に安江木町のうちから起立「皇国地誌」には「県庁ノ西北,東ハ安江町界ヨリ西ハ字専光寺辻ニ至リ,英町ニ続ク壱町五拾五間許,幅凡三間」とある大正5年の戸数92・人口456昭和40年一部を玉川町へ編入,残余は同年金沢市本町1・2丁目,同45年武蔵町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」