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「駿河町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
駿河町(近世~近代)
江戸期~昭和7年の町名町名は富士山の眺望のきく景勝の地であることにちなむその景色は安藤広重の作品をはじめ多くの錦絵に描かれている江戸期は西側の本両替町とともに両...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7299922]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 駿河町(近世~近代) 江戸期~昭和51年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ伝馬町筋から南東に向かう駿河街道(岡崎街道)沿いに位置する西は武平町筋を境に神楽町,東は西蓮寺西の石橋(新道筋)を境として東門前町に接する町名は駿府と名古屋を往来する徳川家康が岡崎からの近道として慶長17年に開削した駿河街道沿いであったことに由来する(尾張志)当町の町代は札の辻伝馬問屋へ出勤した享保年間の家数126,町役銀1貫77匁(名府予録)竪杉ノ町の角に,築城の頃岡田将監の屋敷前にあった井戸と伝える宝生水があり,井戸の辻と称したが,のち井戸は廃され,井筒のみ富士神社に残っている町の東端に大木戸があり,ここまでを府下の木戸内と唱えた(金鱗九十九之塵・蓬左旧記)寺院は,街道北側に真宗大谷派光蓮寺,日蓮宗重正寺があったが,重正寺はのち茶屋新田に移された(名古屋市史)明治期に入ると町域の東境は高岳町までとなり,1~3丁目を新設(明治17年地籍図)明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市東区,昭和19年同市栄区,同20年同市中区,同21年からは再び同市東区に所属明治41年の戸数196・人口858昭和30年の世帯数70・人口344同51年東桜1~2丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」