ケータイ辞書JLogosロゴ 長沼村(近世)


東京都>稲城市

江戸期〜明治11年の村名多摩郡府中領のうち地名の由来は,地内青沼明神社の辺りに形の長い沼があったためという説と,昔長沼治郎太夫という者が村内城山に居住したと伝える説がある(新編武蔵・地誌編輯取調簿)はじめ幕府領多摩川南岸の丘陵端に開けた村で三沢川の支流がつくる谷戸に水田が開け,北は江戸道(鶴川【つるかわ】街道),南は山並が続く寛永元年以降は旗本朝倉氏の知行新田は村の北にあり,西野と呼ばれ,延享3年に検地後幕府領「田園簿」の村高は451石余,うち田352石余,「天保郷帳」では598石余,慶応3年には616石余,うち田468石余(地誌編輯取調簿)助郷は甲州街道布田五宿(調布市)に出役「新編武蔵」によれば,家数120軒,炭焼きが副業となっていた鎮守は青沼社,また天台宗常楽寺は7石の朱印寺であった小字に本郷・馬場・関場などがある(新編武蔵)明治元年神奈川県,同11年南多摩郡に所属同時に郡下の同名村(現在の八王子市長沼町)と区別するため東長沼村と改称明治元年には常楽寺に博文学舎が開校また窪全亮も私塾を開設して活躍した
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7300596
最終更新日:2009-03-01




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