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- 原宿村(近世)とは
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![]() | 原宿村(近世) 江戸期~明治9年の村名榛沢【はんざわ】郡鉢形【はちがた】領のうち古くは藤田郷萱苅荘に属したという県北部の平らな櫛挽【くしびき】台地上に位置する現在の花園町大字武蔵野のうち原宿(中郷【なかごう】ともいう)の地むかし「鎌倉街道にて頗る宿並をなせし故其名残れり」という「原宿はもと当村(飯塚村)に属せしゆえ,当村を上飯塚村とよび,原宿を下飯塚村と呼びしよし,正保の国図には上飯塚とのみありて元禄の国図に至りて飯塚村枝郷原宿猿喰土とあり,今は全く別村となれり」とある(新編武蔵)「郡村誌」は「往古は飯塚村と称せしが,承応年中村高を割き原宿村」など「五ケ村を分郷す」という寛文12年4月10日付の文書「櫛引野入合之事」に「馬草場ニ付小前田新田村并原宿村致相論」とあるのが地名の初見(持田家文書)村の規模東西15町・南北10町検地は元禄10年・延享2年の2回領主は寛永10年~元禄9年まで旗本榊原氏,元禄11年以降は旗本木下氏の知行延享年間新田開発による林畑12町9反余(38石余)は幕府領(花園村史)幕末は木下氏(122石余),代官伊奈氏(38石余),忍【おし】藩領(161石余),計323石余江戸板橋から上野【こうずけ】国への中山道脇往還が南北に通過し,当所より小前田【おまえだ】村・那賀郡広木村(現児玉郡美里【みさと】町)へ人馬の継送りをする往還沿いに鎌倉期の高僧持阿良心の草創と伝える浄土宗常光寺と鎮守八幡社がある化政期の家数60軒,明治5年の戸数52・人口248(花園村史)地租改正の折,村境の入り組みが複雑で1村限りの地積調査不可能につき,旧5か村は明治9年5月合併し武蔵野村となる(花園村史) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 原宿村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 原宿村(近世) 江戸期~明治18年の村名下総国香取郡のうち下総台地北部の丘陵上に位置し,南西部に地蔵原が続く地名は台地面の原野中に立地したことによるものかもと古山村の枝郷で,寛永年中古山村から分村(海保家文書/県史料下総)「各村級分」では幕府領,「旧高旧領」では幕府・淀藩・旗本大河内氏の相給村高は,「元禄郷帳」179石余,「天保郷帳」176石余,「旧高旧領」216石余弘化2年の家数10(関東取締出役控帳/香取郡誌)明治8年千葉県に所属明治18年古原【こはら】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」