ケータイ辞書JLogosロゴ 牟礼村(近世)


東京都>三鷹市

 江戸期〜明治22年の村名。はじめ無礼村と表記したが,文化13年に牟礼村と改める(高橋家文書/三鷹市史料集)。多摩郡野方【のがた】領のうち。寛永17年江戸城御宝蔵番組の知行地となり,幕末まで同組20人の共同知行が続く(高橋家文書)。天正年間,小田原北条氏の滅亡後,遺臣高橋康種が帰農,世襲名主高橋家の祖となり,康種の叔父日栄は日蓮宗真福寺の開基(高橋家系図)。やがて高橋家を中心に50戸ほどの集落が形成され,化政期には下連雀【しもれんじやく】から久ケ山【くがやま】(久我山,杉並区)への道沿い150戸の集落に発展(新編武蔵)。村内には神田上水源の井の頭【いのかしら】池があり,また玉川上水が貫流するため,その維持管理の請負担が,幕府中野筋の御鷹場の負担と合わせ村人に課せられた。井の頭弁財天守護の天台宗明静山大盛寺は,もと小名山谷にあり,江戸末期現在地井の頭池畔に移る(地誌書上)。「田園簿」の村高は,田40石余・畑253石余,計293石余。「天保郷帳」では500石,「旧高旧領」では516石余。鎮守は神明社。明治5年神奈川県,同11年からは北多摩郡に所属。同22年三鷹村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7301603
最終更新日:2009-03-01




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