ケータイ辞書JLogosロゴ 秋庭郷(中世)


神奈川県>横浜市

 南北朝期〜室町期に見える郷名。相模国鎌倉郡山内荘のうち。秋葉村とも見える。当郷内に信濃村・那瀬村がある。初見は,建武元年8月29日の足利直義寄進状で「山内庄秋庭郷信濃村事,所令寄附当院也」とあり,山内荘の領主足利直義は当郷内の信濃村を鎌倉建長寺正続院に寄進している(竜光寺文書/県史資3上‐3184)。なお正続院は建武2年に円覚寺に移ったため,信濃村は以後円覚寺正続院領となっている。同3年5月9日の斯波家長書下にも同様に当郷名が見え,信濃村における甲乙人の乱暴を停止している(円覚寺文書/同前3273)。また同5年3月17日の足利直義書下によれば,足利義詮が「正続院領相模国山内庄秋庭郷内志奈野村」を軍勢に預け置いたため僧食が欠如したとして,預人の違乱を停止するよう命じている(同前3354)。年月日不詳の正続院雑掌申状事書案の端裏書に「秋庭注文」とあり,当郷内の信濃村をめぐって相論が起きていることが知られる(同前3438)。この申状事書案によると,訴訟を起こしたのは聖福寺で,信濃村を同寺の新熊野社領であると主張している。一方正続院側は,信濃村は鎌倉期には北条氏の一族名越氏の菩提寺である長福寺領であったこと,また山内荘は得宗領であったため幕府滅亡後足利直義の所領となり,「秋葉郷上椙殿(重能)御知行」となっていたことを述べ,正続院領丹波国成松保の斎料未進のため,足利直義が正続院に信濃村を寄進したことを主張している。この相論のその後の経過は不明であるが,結局貞和元年11月9日の足利直義御教書で正続院に安堵し,長福寺に対しては,弘安7年の安堵状で由緒が明らかであるので,信濃村の替地が宛行われている(同前3749)。また年未詳11月12日付の夢窓疎石書状に「秋庭郷安堵御下文,令取進之候」とあり(正宗寺文書/県史資3上‐3750),同じく疎石の年未詳9月晦日付の書状にも「抑秋庭事,度々被経御沙汰」とある(円覚寺文書/同前3751)。さらに,観応2年12月6日の足利直義御教書には,観応の擾乱に際して「秋庭郷内信濃村」に乱暴があり,直義がその鎮圧を佐竹義長に命じた旨が記されていることなどから,当郷の支配をめぐって様々な問題が起きていたことがわかる(正宗寺文書/同前4109)。なお至徳元年7月5日の官宣旨には正続院領として「同(相模)国秋葉村」と見え,伊勢大神宮役夫工米などの勅役・院役や恒例・臨時の公役などが免除されている(円覚寺文書/同前4955・4958)。さらに永享10年9月6日の鎌倉府禁制では,当郷での軍勢や甲乙人らが作毛を苅り取るなどの乱暴狼藉を禁止している(同前5945)。なお永和2年10月初吉の円覚寺正続院文書目録に「秋庭郷内信濃村御寄進状以下正文 五通」とあり,同じく至徳4年2月27日の目録にも「正続院領 官府(符)宣色々事……一 秋庭郷分 一通」と見える(同前5172)。また応永元年12月25日の道高寄進状案に,「相模国山内庄秋庭郷内那瀬村事」とあり,上杉能俊は当郷内の那瀬村を鎌倉報国寺に寄進しており(報国寺文書/県史資3上‐5120),享徳26年9月10日の報国寺寺領目録写には「相州山内庄秋庭郷之内那瀬村」と見え,足利成氏は報国寺に那瀬村を安堵していたことがわかる(相文/同前3下‐6353)。なお康暦2年4月7日の檀那門跡相承資によれば,「相州秋葉」に弁鎮なる者がいたという(千葉県史料中世編県外文書)。現在の横浜市戸塚区の秋葉町・名瀬町・品濃町を含む一帯と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302073
最終更新日:2009-03-01




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