ケータイ辞書JLogosロゴ 葦名郷(中世)


神奈川県>横須賀市

 室町期〜戦国期に見える郷名。相模国三浦郡のうち。永享6年6月5日沙弥聖喜所領所職譲状写に「一,相模国三浦郡葦名郷……是等者,雖為不知行,為後日之訴訟」と見え,三浦氏一族の芦名盛政は陸奥国会津(現福島県)に入部の後も,なお本貫地たる当地を含む数か所の不知行所領を,後日の訴訟に備えるため手継証文を添えて息子盛久に譲っている(楓軒文書纂/県史資3上-5893)。「北国紀行」によれば,文明19年に尭恵法印が「三浦が崎」を訪れ「此浦のあしなといふ所の磯の上に平常和侍り」と記している(群書18)。天文19年糟屋清承願文写に「奉□像建立大慈大悲観世音菩薩,相州三浦郡蘆名郷佐嶋村観妙寺之御本尊也」と見え,佐嶋村は当郷内に含まれていたことがわかる(相文/県史資3下-6903)。また現横須賀市浄楽寺の弘治3年3月20日付の木造阿弥陀如来坐像銘札に,「相州三浦郡郡(ママ)芦名郷金剛山常楽禅寺本尊之内札之事」とあり,同銘札の裏下部には同年4月25日の日付で「加地かハ竜へもん 御ミてのはく あしなのむら」と記されている(鎌倉地方造像関係資料2)。戦国期の「役帳」に,小田原北条氏の諸足軽衆荒川氏の所領役高として「四拾六貫六百七十五文 同(三浦)蘆名」が見える。しかし永禄6年7月11日北条氏康判物案写には,「弐拾貫文 諸(蘆カ)名郷,戊(戌)十一月為御褒美被下,以上 梶原本知行之辻」とあり,永禄5年11月に水軍である梶原吉左衛門尉に宛行われている(紀伊続風土記所収/県史資3下-7333)。天正18年卯月日の豊臣秀吉禁制(浄楽寺文書/同前9720)が「相模国三浦郡蘆名郷浄楽寺」にあてて出されており,秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302104
最終更新日:2009-03-01




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