ケータイ辞書JLogosロゴ 飯泉郷(中世)


神奈川県>小田原市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。相模国足柄下郡成田荘のうち。初見は文応元年9月19日の関東下知状(仏日庵文書/相文3)で,飯泉左衛門尉景光法師(法名光仏)の正嘉3年4月9日付譲状に任せて,その後家に「相模国成田庄飯泉郷内田肆町参段⊏⊐弐所」の領掌を安堵している。宝徳2年と推定される5月9日付土岐某書状写(相文/県史資3下‐6090)では,上杉憲忠宛に「相州之内飯泉・小泉御分地之事・希有之至」と述べられているが,本文書は検討を要する。戦国期に至り,大永6年に北条氏によって検地が行われ,同年9月21日付で「飯積之内福田寺分」の検地書出が作成されている(記録御用所/同前6604)。それによれば福田寺分は「本島」と「松地ニ引之」の2か所合計9町60歩・分銭15貫36文から成り,そこから百姓公事免,不作分など計3貫260文を差し引いて残り11貫773文を当年の年貢高として定めている。年未詳7月7日の北条氏綱書状写(同前6732)から,小笠原兵部少輔(元続)が「相州西郡飯泉郷之事,当国御在宿之間進置」かれたことがわかる。元続は将軍足利義澄の没後,東下して北条氏に仕えたといわれ(役帳校注),「役帳」にはその子とみられる小笠原六郎殿の所領役高として「百八拾貫三百九拾一文 西郡飯泉郷」が見える。年未詳8月8日付の関為清・綱高書状写(記録御用所/県史資3下‐7862)によれば,小笠原氏は飯泉の本反銭の内から拾余貫文を宛行われていたが,反銭につく目銭450文は斎藤若狭に渡されることになっていた。また北条氏康は3月10日付で,同氏政は天正2年2月19日付で,それぞれ当郷の孫増殿への譲与を安堵している(同前8064・8197)。永禄5年12月10日の北条家法度写(相文/県史資3下‐7298)は「飯泉山」において諸役を免許し,押買狼藉や喧嘩口論を禁止したもので,「町奉行小笠原殿代」にあてられており,飯泉観音(勝福寺)門前の市に出された法度である。元亀3年9月3日,北条氏政は父氏康の菩提所(大聖寺)を建立し明叟和尚をその住持職に任じて「相州西郡飯泉郷肥田分百貫文地」を寄進し,諸役を免除した(早雲寺文書/県史資3下‐8135)。年未詳7月22日付(県史は天正13年と推定)の北条氏政掟書写では,酒匂本郷小代官百姓中に対し,同月25日に15歳〜70歳の男すべてが武器を持ち「飯泉河原」に出頭するよう命じている(相文/県史資3下‐9101)。天正17年正月25日の北条家朱印状(勝福寺文書/同前9427)には,この年正月の御神馬銭9貫文を「飯泉之供僧別当」に渡すようにと見える。天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めに際しては,同年4月日付の豊臣秀吉禁制が「相模国飯泉山坊中」に出され,衆徒・地下人の還住を命じるとともに,軍勢の乱暴を禁止している(同前9731)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302167
最終更新日:2009-03-01




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