ケータイ辞書JLogosロゴ 稲村崎(中世)


神奈川県>鎌倉市

 鎌倉期〜南北朝期に見える地名。相模国鎌倉郡のうち。稲村ともいう。治承4年8月,源頼朝は伊豆で挙兵したが,三浦半島を本拠とする三浦一族は頼朝に合流しようとして「鎌倉通ニ腰越・稲村・八松原・大磯・小磯打過テ,二日路ヲ一日酒勾ノ宿ニ著」(源平盛衰記/県史資1古‐926)とはせ参じたが,すでに石橋山合戦は終わり頼朝の行方もわからなくなっていた。そこで,三浦一族は「相模川ヲ打渡,腰越・稲村・湯居浜ナムト打過テ,小坪ヲ打上レハ夜モ漸アケニケリ……後ノ方ヲ見返リタレハ,稲村ケ崎ニ武者卅騎計打出タリ」(延慶本平家物語/同前古‐825)と三浦へ帰ろうとしていた。ところが,武蔵国から大庭景親方に加わろうとしてやってきた畠山重忠と遭遇し,由比ケ浜でこれを破っている(吾妻鏡治承4年8月24日条)。当地は鎌倉の西境で,鎌倉初期には腰越からこの岬沿いに海道が通過していたと思われ,入口の1つでもあった。「吾妻鏡」建久2年2月4日条によれば,源頼朝は二所詣に出発しているが「至稲村崎整行列」とあり,当地で行列を整えたことがわかる。また景勝の地でもあり,同年9月21日,頼朝は海岸を歴覧し「稲村崎辺」で小笠懸を行っており,正治2年正月18日には,源頼家が大庭野狩に出た際,「稲村崎以南,江浦景気長途催興」と当地付近の景色に頼家が感動していたことがうかがえる(吾妻鏡)。また,和田義盛の乱の時,建保元年5月3日義盛方に横山党および曽我・中村などの氏族が来援しているが「各陣于武蔵大路及稲村崎辺」と当地に陣取ったことが知られ,軍事的にも重要な場所であった(同前)。元仁元年12月26日,北条泰時は,鎌倉に疫病が流行したため四角四境鬼気祭を行っているが,その西の境として「西稲村」と記されている(同前)。ついで建長4年4月1日宗尊親王が京都から鎌倉に到着したが,その路次は「自稲村崎,経由比浜鳥居西,到下々馬橋」であった(同前)。また建治2年と推定される日蓮書状にも「次第にはなれて,ゆいのはま,いなむら,こしこえ,さかわ,はこねさか,一日二日すくるほどに」と見える(中山法華経寺文書/県史資1‐795)。下って,元弘3年5月,新田義貞が鎌倉を攻め落とすが,「太平記」の稲村崎成干潟事によれば,「稲村崎」が砂浜で路が狭いうえ,鎌倉方は波打際まで逆木を引き懸け,沖の4,5町ほどの所に大船を浮かべて矢を射かけられるようにしていた。そこで新田義貞は竜神に祈願して黄金作りの太刀を海中に投げ入れたところ,海岸が20余町も干上って楽々攻め込むことができたと記されている。この合戦は5月18日のことで,「梅松論」には「五月十八日未刻ばかりに,義貞の勢は稲村崎を経て,前浜の在家を焼払ふ煙みえければ」(群書20)とあり,これより前,義貞の一族大館宗氏が当地で討死するなど(尊卑分脈),かなりの激戦であった。またこの合戦のことは,同年10月日の石川義光軍忠状に「同十八日稲村崎致散々合戦之時被付右膝畢」と(石川文書/宮城県史30),同年12月日の天野経顕軍忠状にも「懸破稲村崎之陣」と若党らの討死したことが記載されている(天野文書/県史資2‐3139)。また建武2年11月6日の足利尊氏侍所頭人等連署奉書写には「鎌倉中入口内稲村崎警固事」と見え,当地の警固を天野経顕に命じている(同前3上‐3243)。なお文学作品にも当地名が見え,「曽我物語」巻10には曽我兄弟が工藤祐経をねらった場所の1つとして「稲村」が,「宴曲集」巻4には「はや鎌倉を見越が崎,越ては稲村・稲瀬河」と見え,また「浜出草子」にも「はるかの沖を見渡せば,船に帆かくる稲村が崎とかや」とある(古典大系)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302300
最終更新日:2009-03-01




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