ケータイ辞書JLogosロゴ 岩瀬郷(中世)


神奈川県>鎌倉市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。相模国鎌倉郡山内荘のうち。「ゆわせのごう」ともいう。仁治元年3月7日の北条泰時下文写に「山内新阿弥陀堂料所岩瀬郷借用等事」と見え,山内荘倉田郷の替として同荘内の当郷を新阿弥陀堂(証菩提寺)に寄進している(相文/鎌遺5603)。文保元年12月14日の北条氏執事連署下知状写によれば,証菩提寺から当郷の給主奥田四郎右衛門尉盛忠の正和2年以来の年貢未進の訴えがあり,北条氏は盛忠に年貢を究済するよう命じている(相文5)。なおこの文書から奥田盛忠は得宗被官と推定される。元弘3年11月24日の上杉重能・道眼売券にも「山内庄岩瀬郷事」と見え,御所修造料足のために当郷を明年正月1日から明後年12月晦日までの2年間の2作を限って100貫文で売却している(金沢文庫古文書/県史資2‐3127)。なお,田畑実検の結果,1年の得分が130貫文に不足した時は年季を延ばすこと,逆に多いときはその分も徴収してよいことを定められている。建武2年3月18日の新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文に,証菩提寺の供僧三位律師実修分として「田二町……〈三段岩瀬〉」とあり,当郷の田3反が山内荘本郷にある新阿弥陀堂の料田であったことが知られる(証菩提寺文書/同前3上‐3205)。正平7年正月10日,足利尊氏は当郷を勲功の賞として,島津周防守忠雅に充行っている(源姓越前島津正統家譜/同前4125)。ついで文和3年6月24日の足利尊氏御教書写によると,当郷は島津周防守忠兼の所領であったが,飯田七郎左衛門が軍勢を率いて乱入,忠兼の代官池田右衛門尉を殺害するという事件があり,当郷をもとのように忠兼代に沙汰付けするように関東管領畠山国清および相模守護川越直重に命じ(同前4258・4259),同年8月24日には急いで沙汰するよう鎌倉公方足利基氏に伝えている(同前4262)。また,同年8月12日付で川越直重は足利尊氏の意をうけて守護代河越上野介に施行した(同前4263)。一方,代官殺害の件については,文和3年9月12日,足利義詮がその調査を足利基氏に命じ(同前4266),その命をうけた川越直重は同年10月27日および11月20日の2度にわたって奉行所に請文を提出している(同前4269・4276)。永徳3年12月11日の足利氏満書状には「明月庵領相模国山内庄岩瀬郷事」と見え,鎌倉明月院領となっていたことが知られる(明月院文書/県史資3上‐4941)。至徳3年7月7日の僧道光寄進状では,当郷内の白河局跡の田地が明月院に寄進されている(同前5005)。応永3年7月23日,室町幕府管領斯波義将は,上杉朝宗を通じて当郷半分などを上杉憲定代に沙汰付けさせている(上杉文書/県史資3上‐5166)。康正3年5月18日,上杉房顕は「明月院領相州岩瀬郷」における諸公事を免除している(明月院文書/同前3下‐6250)。下って,大永2年3月7日の北条氏綱制札写には「相州岩瀬郷之内今泉村竹木之事」とあり,他郷から当郷内今泉村の竹木を切り取ることを停止している(相文/同前6559)。なお,享禄5年9月27日の年紀のある今泉村毘沙門堂の棟札によれば,毘沙門堂(白山神社)および吉祥天などが修造再興されている(新編相模)。天文4年3月5日の宗感寺領寄進状によれば,当郷内の孫四郎名内の田2反の代物100疋が,明月院に寄進されている(明月院文書/県史資3下‐6670)。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏の一族でのちに小机城主となった半役被仰付衆北条氏尭の所領役高として「百六十貫文 東郡岩瀬郷」と見え,また,寺領の中に明月院の所領役高として「卅一貫九百七十文 東郡岩瀬之内今泉」と見える。永禄7年9月25日の蔭山家広後室妙悟証文によると,「ひかしこうり,ゆわせのこう卅十(衍)くわん文うちにて,一くわん二百文めに,た二たんわ,けんちやう・めうこ・上ゑつ・かうさんのために,ちやとうせんとして,ミつのへいぬのとしより,なかとにうたうとのきしん申され候事,ちつしやうなり」と見え,当郷30貫文のうち1貫200文の田2反が円覚寺富陽庵に永禄5年に寄進されていたことが知られる(雲頂庵文書/県史資3下‐7403)。下って天正18年7月17日の鶴隠周音等書上案でも,当郷に富陽庵の敷地1貫200文があったことが確認できる(瑞泉寺文書/同前9823)。現在の鎌倉市岩瀬および今泉を含む一帯と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302374
最終更新日:2009-03-01




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