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- 荻窪村(近世)とは
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荻窪村(近世) 江戸期~明治8年の村名会津地方東部,猪苗代盆地東縁部に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは月輪荘に属したという会津藩領川東組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では猪苗代郡に属し325石余,享保3年405石余(小林家文書),文化15年の村日記(県史10下)では409石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに379石余村名は昔当地に荻が多かったことにちなむ(新編会津)端村に牛房作【ごぼうさく】がある享保3年の家数52軒・人数204,馬35,文化3年の家数30軒・人数102,馬9(小林家文書)化政期の家数24軒・牛房作6軒(新編会津)肝煎は古くは安部家・宇内山家,のち中村家鎮守は稲荷神社猪苗代三十三観音第8番の札所は地蔵堂に合祀されている下舘隣松院の末寺玉東菴があったという(同前)明治元年10月の村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に民政役所へ帰役願を提出した(小林家文書)明治8年堀切村ほか2か村と合併し三郷村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荻窪村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荻窪村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荻窪村(近世) 江戸期~明治5年の村名更級【さらしな】郡のうち聖山の北西山腹,聖川沢の支流棚原沢の谷頭に位置する大岡村の枝村の一つで,寛文4年からは同村が「三組一村」に編成されたことにより宮平組に属す萩窪村と書く史料もあるが,誤記である松代藩領寛文元年御分限帳(県史近世史料7-1)には松代藩の家臣3人の給知として32石余が記される村高は,宝永年間~文政年間に32石余(更級埴科地方誌3上),「旧高旧領」でも32石余文久年間の戸数2(大岡郷村誌)明治5年大岡村が4か村に分村したことに伴い宮平村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」