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- 落合郷(中世)とは
「落合郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 落合郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 落合郷(中世) 戦国期に見える郷名相模国中郡のうち戦国期と推定される3月27日の北条氏邦判物によると,氏邦は曽阿弥のために小田原から落合までの伝馬3疋を出すよう関山通高に命じているが,この落合は秦野【はだの】市落合とも考えられる(関山文書/県史資3下‐8339)なお,永禄4年と推定される酉11月22日の北条家朱印状によると「陣夫出方……弐疋 落合」と見え,小田原北条氏は当地から陣夫2疋を大藤信興に出させたことが知られるが,当地にあたるかは未詳(大藤文書/同前7256)また,天正18年5月日の豊臣秀吉禁制が「相模国大中郡内落合郷長徳寺」に下されており,地内の長徳寺が秀吉によって保護されたことがわかる(長徳寺文書/県史資3下‐9790)次いで,文禄2年正月6日本願寺の坊官下間頼廉は「相州落合長徳寺」にあてて,「顕如様往生之為志,銀子四匁五分五リン,進上之通,懇ニ申上候,則被成御印書候」と申し送っている(同前/相文1)当地の長徳寺は相模国における有力な浄土真宗寺院で,文禄元年の顕如の死去に際して銀子4匁5分5厘を進上しているこれに対し,同年正月9日の宗璞書状によれば,長徳寺には顕如の分骨が納められている(同前)このほか,長徳寺には本願寺との関係を示す史料が所蔵されている江戸期には上落合村・下落合村が見え,現在の厚木市上落合・伊勢原市下落合に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 落合郷(中世) 戦国期に見える郷名相模国中郡のうち戦国期と推定される3月27日の北条氏邦判物によると,氏邦は曽阿弥のために小田原から落合までの伝馬3疋を出すよう関山通高に命じているが,この落合は秦野【はだの】市落合とも考えられる(関山文書/県史資3下‐8339)なお,永禄4年と推定される酉11月22日の北条家朱印状によると「陣夫出方……弐疋 落合」と見え,小田原北条氏は当地から陣夫2疋を大藤信興に出させたことが知られるが,当地にあたるかは未詳(大藤文書/同前7256)また,天正18年5月日の豊臣秀吉禁制が「相模国大中郡内落合郷長徳寺」に下されており,地内の長徳寺が秀吉によって保護されたことがわかる(長徳寺文書/県史資3下‐9790)次いで,文禄2年正月6日本願寺の坊官下間頼廉は「相州落合長徳寺」にあてて,「顕如様往生之為志,銀子四匁五分五リン,進上之通,懇ニ申上候,則被成御印書候」と申し送っている(同前/相文1)当地の長徳寺は相模国における有力な浄土真宗寺院で,文禄元年の顕如の死去に際して銀子4匁5分5厘を進上しているこれに対し,同年正月9日の宗璞書状によれば,長徳寺には顕如の分骨が納められている(同前)このほか,長徳寺には本願寺との関係を示す史料が所蔵されている江戸期には上落合村・下落合村が見え,現在の厚木市上落合・伊勢原市下落合に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 落合郷(中世) 鎌倉期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」