ケータイ辞書JLogosロゴ 香川村(近世)


神奈川県>茅ケ崎市

 江戸期〜明治22年の村名。相模国高座【こうざ】郡のうち。寛永10年旗本本間氏・八尾氏知行,元禄10年・幕末ともに旗本本間氏・戸田氏知行。村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに327石余,「旧高旧領」350石余うち本間氏知行347石余・戸田氏知行2石余。天正19年5月3日の本間季直への知行宛行状に「相模国東郡香川之郷之内を以三百石」と見え,寛永2年10月23日の本間季直への知行宛行状には「相模国東郡香川之郷三百石」と見え,同様に同15年には村内のうち2石余が戸田貞吉に宛行われている(記録御用所/県史資8上)。「新編相模」によれば,江戸から14里,東西10町・南北7町程,家数55軒,南境に大山道が通る。神社は諏訪上社・諏訪下社・聖天社・太神宮・山王社・羽黒社,寺院は曹洞宗香川山玄珊寺,修験は香沢山普賢寺,ほかに浄心庵がある。安政2年の家数60軒・人数352,馬3。助郷役は,文政3年には藤沢宿加助郷村となっており,幕末まで負担する(茅ケ崎市史1)。安永2年の幕府評定所裁許状によれば,村入用の割当てをめぐり恣意的運用を行った名主と組頭に対し,小前41人が訴訟を起こし,名主側が役儀召上げの上過料銭を徴収され,小前側の勝訴となった。しかし小前側も村入用帳の内容を検討しなかった点で全員急度叱りの罰を受けている。村方騒動の判例としてこの一件を幕府は「科条類典」に収めている(同前4)。万延元年に浄心庵の住職となった郡司享隆は寺子教授を行っている。また坪田藤左衛門父子が天保年間から明治初年にかけて寺子屋を開いている(茅ケ崎市史研究6)。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。「皇国地誌」によると,税地124町8反余うち田26町5反余・畑60町7反余・宅地7町7反余・藪4反余・山林28町5反余・萱野8反・芝地1畝,戸数76・人口447,馬3,車9うち人力車7・荷車2(同前4)。同22年松林村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302771
最終更新日:2009-03-01




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