ケータイ辞書JLogosロゴ 柏ケ谷村(近世)


神奈川県>海老名市

 江戸期〜明治22年の村名。相模国高座【こうざ】郡のうち。寛永10年幕府領,元禄10年旗本町野氏知行,幕末は旗本鈴木氏知行。村高は,「元禄郷帳」144石余,「天保郷帳」「旧高旧領」とも212石余。「新編相模」によれば,江戸から12里余,矢倉沢往還が走り,東西20町・南北26町,家数29軒,鎮守は山王社。矢倉沢往還は青山街道の別称を持ち,東海道の裏街道として発達。二階堂実雄法印による阿夫利大山寺の復興に伴い,同街道を大山講の人々が利用,当地は彼らの宿泊地としてにぎわいをみせるようになった。宿名は大塚宿。当村および隣接する栗原村(現座間市)と深谷村(綾瀬市)が交界して宿場をなしていた。宿内は飯屋・茶屋・旅宿・鍛冶屋・呉服屋・小間物屋・材木屋・薬種屋・酒屋・米屋・豆腐屋・菓子屋・蕎麦屋・油屋・提灯屋などが軒を並べ,神事舞太夫もおり,また宿内赤坂の地には番傘屋・雑穀屋があった。この大塚には半農半商の者もいたが,村民の多くは米・麦生産を主とし,他の現金収入として養蚕・林業を行った。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。同22年海老名【えびな】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7302795
最終更新日:2009-03-01




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