ケータイ辞書JLogosロゴ 河入郷(中世)


神奈川県>愛川町

室町期〜戦国期に見える郷名相模国愛甲【あいこう】郡のうち応永26年6月3日の鎌倉公方足利持氏御教書に「覚園寺雑掌申,当寺領相模国散田郷用水事,為同国河入郷之流末之間,可致井料沙汰之旨,就成煩,有其沙汰,去九年十月廿六日成敗分明之処,動及催促云々」と見え,散田郷の用水が当郷の下流にあったため,井料をめぐって争いが起こった応永9年10月26日裁定が下されたが,その後当郷から散田郷に井料を催促する動きがあったため,覚園寺雑掌の訴えをうけた足利持氏は,重ねて「且任先落居旨,且守旧例,停止永彼違乱,可令全寺家所務」として河入郷からの違乱を禁止している(建長寺文書/県史資3上‐5589)しかし,その後も用水の井料をめぐる争いが続いたらしく,嘉吉3年4月11日にも同内容の関東管領上杉憲忠家奉行人連署奉書が出されている(覚園寺文書/同前3下‐6037)一方,嘉吉元年12月29日の室町幕府管領細川持之下知状によれば,「相模国東郡河入郷〈竜崎右京亮跡〉」が勲功の賞として長尾実景に宛行われている(上杉文書/同前6030)文亀3年9月10日の石楯尾神社棟札銘写に「名倉権現宮,相州奥三保十八箇村并河入郷七箇村,都二十五箇村惣社也」と見え,当郷は7か村から成っていたという(相文5)天文8年卯月5日の熊野先達泉勝檀那注文によれば,当郷の檀那は和田かもの助,先達は泉蔵坊泉勝であった(米良文書/県史資3下‐6718)下って,天正18年5月24日には内藤綱秀が津久井城普請の人足として,当地と角田に15人の提出を命じている(相文/同前9785)また寛永2年9月2日の大久保康村への知行宛行状には「河入郷新戸村百三拾四石六斗余」と見える(記録御用所/県史資8上)なお江戸期には下川入村(現厚木市)を川入村とも称したが,「新編相模」では,古く下川入村・棚沢村(現厚木市)・熊坂村・半縄村・八菅村(現愛川町)を下川入郷,角田村・田代村(現愛川町)を上川入郷と称したという中津川中流域の沖積地沿いの地域と思われ,現在の厚木市下川入・棚沢,愛川町中津・角田・田代を含む一帯に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7303092
最終更新日:2009-03-01




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