- JLogos検索辞書>
- 北窪村(近世)とは
「北窪村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
北窪村(近世) 江戸期~明治8年の村名古くは窪村と称した会津地方東部,磐梯山南麓に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは更級荘に属したという会津藩領川東組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では猪苗代郡に属し421石余,享保3年124石余(小林家文書),文化15年の村日記(県史10下)および「天保郷帳」124石余,「旧高旧領」127石余享保3年の家数16軒・人数52人,馬7,文化3年の家数8軒・人数41,馬3(小林家文書)化政期の家数9軒(新編会津)慶応4年の産物は籠細工(猪苗代郷土誌稿)鎮守は神明神社村の西部にある地蔵堂は見禰村の泥田から掘り出した地蔵を祀り,享保年間に修験覚道院が再建したと伝える(新編会津)肝煎は古くは五十嵐家,のち古川家,明治は安部家明治元年10月の村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に帰役願を民政役所へ提出した(小林家文書)明治8年本【もと】町ほか2町2か村と合併して猪苗代町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北窪村(近世) 江戸期~明治14年の村名志田郡南方【みなみかた】松山郷のうち金谷村の北東部にある小村で「封内風土記」の人頭6人天保の村高193石余(天保郷帳)で,江戸期の新田は40石余千石村茂庭氏(1万3,000石)の一円知行地で,元禄16年には同氏の侍屋敷2軒があった(茂庭家文書)明治元年土浦藩預り地,以後,涌谷【わくや】県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属同14年黒江村とともに金谷【かなや】村に合併,同村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」