ケータイ辞書JLogosロゴ 小網代村(近世)


神奈川県>三浦市

 江戸期〜明治22年の村名。相模国三浦郡のうち。寛永10年は幕府領,元禄10年は旗本松平氏知行,幕末は幕府領。村高は,「元禄郷帳」では網代村とあり251石余,「天保郷帳」では「古者網代村 小網代村」とあり277石余,「旧高旧領」では281石余。なお「三浦古尋録」によれば,文化年間は松平三七郎知行250石余。検地は文禄3年長谷川長綱が実施。「豆相海浜浦々図」によれば,船数13うち小漁船5・もく船8,船年貢は永1貫150文,湊の広さは湊口4町半・奥行12町,深さは2丈から2丈5尺まで,廻船400艘ほど停泊できるとある(県立図書館所蔵/三浦古文化3)。「三浦古尋録」による化政期の家数90軒。「新編相模」によれば,江戸から18里,三浦往還が走り,東西1里・南北15町,家数103軒,北に網代湊があり,東西500間・南北210間余,船戸28,油を流した如く水面が穏やかなため油壺と呼ばれる入江,同湊から海路で江戸まで19里,浦賀まで5里,下田まで36里,鎮守は白髭明神社,寺院は曹洞宗海蔵寺,臨済宗永昌寺,浄土宗真光院・松寿院。当村小名荒井に三浦氏数代の居城であった新井城址がある。同城址二の丸北隅にある三浦道寸・子義意の墓は天明2年建立。道寸の墓碑文中に「天明二壬寅秋七月永昌九世正機,募化緑造立,施主正木志摩守・三浦長門守・杉浦出雲守・松平縫殿助・松平縫殿助家臣松本文左衛門・奈良長蔵」,義意の墓碑文中に「地頭松平縫殿助地所寄附,天明二壬寅稔七月十一日,網代山海蔵禅寺智玉叟代造立」と見える。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。「皇国地誌」によれば,税地は165町7反余うち田10町3反余・畑50町4反余・宅地4町7反余・山林97町3反余,明治9年の戸数128・人口647,船61,牛馬26,教員数1・生徒数51の小網代学校がある。なお港については「海舶二百余ヲ泊ス可シ……一ケ年出入船数五百艘ニ下ラス然レドモ皆一時風波ヲ避クルノミニシテ貨物貿易ヲ為サズ」とあり,油壺については「港内甚狭ク且港口暗礁アルヲ以テ碇泊甚不便ナリ」と見える(残稿)。明治22年三崎町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7303313
最終更新日:2009-03-01




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