ケータイ辞書JLogosロゴ 座間郷(中世)


神奈川県>座間市

 鎌倉末期〜戦国期に見える郷名。相模国高座【たかくら】郡のうち。古代では伊参郷と称した。元徳2年6月9日の長井高秀書状(神田孝平氏所蔵文書/県史資2-2870)に,「座間郷内長松寺事」と見える。その後,応永3年12月17日の鎌倉公方足利氏満寄進状写(相文/同前3上‐5175)に,氏満が建長寺宝珠庵末寺であった長松寺に「座間郷内田畠大」を寄進していることが見える。応永33年9月の善波憲有軍忠状写(相文/同前5768)には,足利持氏が武田信義追討のため出陣した際に,憲有が当地にはせ参じた旨が見える。また戦国期の「役帳」には,小田原北条氏他国衆の油井領(北条氏照領)の所領役高として「五拾貫文……同(東郡)座間」と記されている。なお,天文12年10月24日の北条家朱印状写(相文/県史資3下‐6783)に「相州東郡座間之郷新戸村安藤与太郎七ケ村之可為名主職之司」と見え,当郷内に新戸村が含まれていたことがわかる。江戸期の「新編相模」によると,応仁・文明年間に座間7か村の地頭職を白井織部是房が所有していたと伝えており,当郷内には新戸村以下7か村が存在していたと推定される。新戸村は現在の相模原市新戸にあたり,さらに当郷内の長松寺も現在同地にあることから,当郷は現在の座間市から相模原市南部にかけての一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7303583
最終更新日:2009-03-01




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