ケータイ辞書JLogosロゴ 蓼川村(近世)


神奈川県>綾瀬市

 江戸期〜明治22年の村名。相模国高座【こうざ】郡のうち。藤沢宿の吉右衛門の開発によって寛文13年新田村となり,享保年間の高改帳では蓼川新田ともいわれた(藤沢市史料)。また新蓼川村ともいわれた。寛永10年・元禄10年ともに幕府領,幕末には旗本大沢氏・石川氏知行。村高は,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに599石余,「旧高旧領」でも同高うち大沢氏知行311石余・石川氏知行287石余。「新編相模」によると,江戸から10里,東西10町余・南北17町,家数63軒,村内は上分・下分に分けられ,上分の鎮守は山神社,下分の鎮守に天神社があり,ほかに稲荷社・秋葉社がある。また観音寺の号のある観音堂がある。慶応元年の家数55軒・人数358,馬6(県史資8上)。戸塚寄場組合村に属す。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。同3年の戸数60・人口379,馬3,明治3年の明細取調書上帳では農間余業は養蚕(近藤家文書)。同8年蓼川学校が開校。同18年の戸数71戸(綾瀬村風土記)。同22年綾瀬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7304097
最終更新日:2009-03-01




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